原田宗典 屑籠一杯の剃刀 自選恐怖小説集 目 次  ミズヒコのこと  削 除  ポール・ニザンを残して  空白を埋めよ  いやな音  屑籠《くずかご》一杯の剃刀《かみそり》   あとがき  ミズヒコのこと  こういう症状を何と呼ぶのか、ぼくには見当もつかない。症状と呼ぶのも憚《はばか》られるほどの些細《ささい》なことだから、たいして気にも止めずに暮らしていたのだが。  高所恐怖症、先端恐怖症などの言葉から自分なりに名付けるならば、頭上恐怖症とでも言おうか。上から何か落ちてきて自分を直撃するのではないかという不安が、心のどこかにある。と言っても四六時中そんな不安に苛《さいな》まれているわけではなく、建物の脇《わき》などを通り過ぎる時に限られる。特にひどいのは、工事中の建築物だ。吊《つ》り上げ作業中の鉄骨がバランスを失って落下してくるのではないか。あるいはスパナやボルトなどの普段はおとなしく鳴りをひそめている道具が、加速度という名の牙《きば》を剥《む》いて襲いかかってくるのではないか。そんな不安が胸の中を黒く、粘っこくするのだ。  だからぼくは高い建物のそばを通過する際、自然と歩調が早くなり、途中何度か頭上を仰ぎ見てしまう。いつのまにか癖になっているらしく、別に不安を覚えない時でも無意識の裡《うち》に上を見ている。  一体いつごろから、こんなふうになったのか。不安の根を探り出すのは容易ではない。それは高所恐怖症にしても先端恐怖症にしても、同じことだろう。原因は記憶の奥底に澱《よど》み、語るべき唇を失っている。よほど重症で、目常生活に支障をきたすようなら問題だが、そうでなければ無理やり記憶を呼び覚ましても、得るものは少ないに違いない。捨ておくのはぼくとしても当然のことだ。  ところがつい最近になって、ちょっとしたきっかけから、頭上恐怖症の根の部分に繋《つな》がりそうな記憶が蘇《よみがえ》る機会を得た。その記憶によれば、ぼくの不安はある一人の少年に起因しているらしいのだ。断言はできないが、残念ながら否定もできない……。  その少年が何故《なぜ》ミズヒコと呼ばれていたのか、今となっては理由が思い出せない。安直に考えるなら、彼の姓名に�水�と�彦�の二文字が含まれていたという想像に至る。水田、清水、水野、正彦、勝彦、則彦……。しかしどんな姓名を当てはめてみても、ぼくの脳裏に浮かぶミズヒコのイメージとは相容《あいい》れないのだ。  あるいはこういう想像はどうだろう。  彼は水泳が得意で、夏のプール授業の際には文字通り水際立った活躍を見せた。例えば滑るような潜水技術、美しいフォームの飛び込み、鮮やかなターンなどを早々と身につけ、授業のたびに模範泳者として披露していた。そのために周囲の少年たちがやっかみの気持を半分籠《こ》めて�水彦� とあだ名したのではないか、と。  しかしこれも想像の域を出ない。第一ぼくの記憶の中のミズヒコは病身で欠席がちだったし、体育の時間になるとうつむいて木陰に座り、見学ばかりしていたように思う。痩《や》せて、顔色が悪く、伏目がちな少年。おぼろげに思い浮かぶミズヒコの容貌《ようぼう》は、そんな様子だ。  もしぼくがその小学校を卒業していたなら、アルバムなり文集なりが残っていてミズヒコの思い出へ繋がる鍵《かぎ》となり得ただろう。しかしながらぼくは家庭の事情があって、転校を繰り返していた。その小学校に学んだのも、五年生のわずか一年に過ぎない。自分自身の記憶の他に、手掛かりは何もないのだ。  ずいぶん長い間忘れ去っていたミズヒコのことを急に思い出したのは、つい先週のことだ。それは友人との他愛ない会話によって、まったく偶然に喚起されたと言っていい。ところが一旦《いつたん》思い出してみると、何故こんなにも印象的な出来事を忘れていたのか訝《いぶか》ってしまうほどなのだ。あるいはぼく自身が、積極的に忘れようと努めていたのか……。  その時、ぼくと友人のYは渋谷のビリヤード場で四ツ球を撞《つ》いていた。軽く一杯やって、終電を見送った後のことだ。タクシーがつかまりやすくなる時間まで、暇をつぶすつもりだった。ようするにゲームに熱中するというよりも、とりとめもないお喋《しやべ》りに夢中だったのだ。 「ビリヤードの球というのは、実に計算された大きさだと思わないか」  確か二ゲーム目に入る際に、白球と赤球を直線上に配置しながらYがそんなことを言った。インダストリアル・デザイナーという職業柄、彼はしばしば自分の美意識の尺度に合わせて�物�を解説しようとする。酒壜《さかびん》にしても灰皿にしても、あるいはもっと大きな物……例えば建築物などについても、彼は常に職業上の目を通して冷静な解説を加える。その夜は目の前にあったビリヤード球が、俎上《そじよう》に載ったというわけだ。 「そんなもんかね……」  ぼくは一ゲーム目を大差で失ったせいもあって、わざと気のない返事をした。ビリヤード台を挟んでYと差し向かい、しゃがみ込んで球をセットする。白球、それから赤球。その向こうに、片目をつぶって配置具合を確かめるYの顔がぼんやり霞《かす》んで見える。 「人の作り出した物の形や大きさには、必ず理由があるものだよ。自然界と違って、ごく短いサイクルで淘汰《とうた》されていく」 「お得意の美学が始まったな。撞いてもいいか」 「まあ焦るなよ……さっきセッティングする前に、ふと思いついて白球をぎゅっと握りしめてみたんだけど、こいつ、なかなか気の利いた大きさなんだな。握ってみたことあるかい?」 「いや……」  言われてみれば、確かにビリヤード球を握りしめたことなどなかった。それは常にキュー先で弾き飛ばすだけの対象であり、稀《まれ》に台から床へ転げ落ちることがあっても、拾い上げる動作はほとんど無意識のものだ。掌《てのひら》の中で大きさや重さを味わったことなど一度もない。 「ちょっと握ってみろよ」  促されて目の前の白球を取り上げ、二、三度宙へ放り上げてから握りしめてみる。気の利いた大きさ、とYは感想を漏らしたが、確かにその通りだった。大きくもなく、小さくもなく。重さも実に心地好い。 「他にたとえようのない大きさだろう。おそらく台の面積から逆算してこうなったのだろうけど、なかなかどうして見事なものだ。これがもし直径にして僅《わず》か五ミリ大きければ、ゲーム自体も結構間の抜けたものになるはずだ」 「じやあ重さは球の走り具合との兼ね合いでこうなったわけか」 「だろうね」  Yは既に二つの球をセッティングし終え、キュー先にチョークを擦《こす》りつけながら答えた。ぼくは掌の白球を野球のボールのように指をかけて握ったり、爪《つめ》を立てたりして、しばらく考え込んだ。その手応えには、覚えがある。ビリヤード球を握りしめた記憶はないはずなのに、何かが心に引っかかる。 「これ、材質は何だろう」  中指の爪でぴちんと弾きながら訊《き》いてみる。Yはチョークの手を止め、あらためて自分の白球を取り上げて、 「安物は硬質プラスチックだという話を聞いたことがあるけど、……これはどうだろう。象牙《ぞうげ》じゃないかな」 「象牙か……」  隣の台でナインボールに興じている若い男が、渾身《こんしん》の力をこめてブレイク・ボールを撞き出す。乾いた破裂音があたりに満ち、小さな歓声が続く。それら一切の物音が耳元から遠ざかり始め、ぼくはまるでポケットへ突っ込んだ指先が硬貨の表面を撫《な》でるような具合に、記憶の裏側についた小さな引っかき傷を探りあてる。 「そうやって想像力をたくましくすると、ビリヤードもまた野性的な趣《おもむき》を呈するな。あんな獣の牙がこう丸く加工されて、緑のラシャの上を転がってると思うと何だか愉快じゃないか」  Yは笑いながら白球を元の位置へ戻し、さあ撞けよと顎《あご》をしゃくって促した。しかしぼくはしばらくその場に立ち尽くしたまま、みずみずしく蘇ってくる少年の日の思い出に浸っていた。  ——あの時、ミズヒコが持っていたのはビリヤードの球だったのだ。  ミズヒコという名前は、何の苦もなく思い出すことができた。そしてあの病弱そうな横顔と。ぼくは掌の白球を一層強く握りしめた後、台の上へぽとりと落とした。  硬い音とともに白球は低く二、三回バウンドし、緑のラシャの上を思わせぶりに転がって、赤球に触れた。  転校したてのぼくが、あれほど目立たない少年だったミズヒコと親交を結んだきっかけは何だったのだろう。教室での席が隣合っていたか、それとも帰り道が一緒だったのか。そのあたりの事情は皆目思い出せない。ただ、ミズヒコの家の様子をかなり鮮明に記憶していることから推察すると、ぼくは頻繁に彼の家へ遊びに行っていたものと思われる。  それは古い木造の小さな平屋で、南側と西側をくの字型に占領する大きな建物の影の中にぽつんと建っていた。建物というのは、製菓会社の工場だ。確かな記憶はないが、通っていた小学校の校舎よりも大きいという印象が残っているから、おそらく六階建てほどの規模だったのだろう。この建物のためにミズヒコの家の室内はいつも薄暗く、昼間でも明かりをともしていた。  初めて訪れた時、ミズヒコは懐中電灯の明かりを当てて、自分の切手帳を披露したものだ。薄暗い部屋の中でそこだけあたたかく、黄色い光のもとに浮かび上がる数々の切手を、ぼくは鮮やかに思い出すことができる。ミズヒコの収集の内容は、小学生の趣味にしては随分贅沢《ぜいたく》なものだったのだ。『見返り美人』や『月と雁《かり》』など、今考えてみればその貧しげな住居とはおよそ不釣合いなほど高価な切手を、ミズヒコは持っていた。 「父さんがね、家へ来るたびに買ってきてくれるんだよ」  独り言のように低い声で、ミズヒコは言った。その時ぼくは、妙な言い方をするなと思った。父親が家へ�来る�というのは、何だか変わった表現だ。しかし問いただしてはならないような気配が裏側にあるのを、子供心に感じたのも事実だ。だからぼくは黙ってうなずき、切手帳をめくり続けた。  ミズヒコの母親は、ぼくが訪れる時間帯つまり昼から夕方にかけて、家にいることは一度もなかった。これはぼくがミズヒコの家を好んで訪れていたことの、大きな理由のひとつだろう。ぼくの知っているミズヒコはいつも一人で、伏目がちにうつむいている気弱そうな少年だ。例えば記念写真風に、その両隣に両親が立っている様子などは、想像もできない。  子供というのはある意味で計算高い生物で、大人たちから様々な抑圧を受ける一方、その代償として自分が確実に優位に立てるものを好む。それはある時は犬や猫などのペットであり、ある時は気の弱い友人であったりする。ぼくにとってのミズヒコは、ちょうどそういう存在だったのかもしれない。表立っていじめた記憶はまるでないのだが、一緒にいるとぼくは常に様々な意味での優越感を味わっていた。学校での勉強やスポーツ、ちょっとしたゲームや遊びなど、何をとってみてもミズヒコはぼくよりも劣っていた。  それなのに今思い返すと、ミズヒコには劣等生の持つ自虐的な明るさや卑屈な印象が微塵《みじん》もない。むしろ年長者のような落ち着きを備え、何をするにつけても故意《わざ》と全力を出さないよう努めていたふしがある。そう思えるのは、後に続く鮮烈な思い出と深い繋がりがあるのだろう。その事件さえなければ、ミズヒコは単に元気のない劣等生として、頭の片隅に記憶するに留まったはずだ。いや、記憶するにも値しない少年として、完全に忘れ去っていたかもしれない。  Yとの会話によって、ミズヒコの存在が蘇《よみがえ》った数日後。ぼくは仕事場の近くにある書店を訪れ、医学書のコーナーに立っていた。どうしてもひとつだけ、はっきりさせておきたいことがあったのだ。  中腰になって、本棚に並ぶ背表紙へ目を走らせていく。病名や体の器官、体液や医療器具などの見慣れないタイトルが、艶《つや》のない仏頂面で並んでいる。平日の昼間だというのに、書店内は本を物色するサラリーマンやOLでかなり混雑していた。が、唯一医学書のコーナーだけは賑《にぎ》わいとは無縁な、静的な佇《たたず》まいを漂わせている。実際に医者と向かい合った時のような軽い緊張を覚えながら、ぼくは一冊の医学書を棚から抜き出した。 『痛みへの挑戦』というのが、そのタイトルだ。二人のアメリカ人の共著で、翻訳には三人の日本人が名をつらねている。ずっしりと手応えのある厚さは本を開く前から抵抗を感じてしまうほどだが、冒頭のページにざっと目を通すと、意外にも専門書というよりは一般の読者を意識した内容だった。せわしくページを捲《めく》っていく内に、こんな文章に出くわす。 『……痛みを感ずる能力を生まれつき持っていない人達は、痛みの価値について説得力のある証拠を提供する。これらの人々の多くは子供の時に広範囲にわたる火傷《やけど》、打撲傷、裂傷を負ったことがあり、食物の咀嚼《そしやく》中に舌を強く噛《か》んでしまうことが稀でなく、身体にひどい傷害を負わないためにはどうするべきかを、苦労してやっとの思いで覚えるのである。このような人達の中には、正常人なら激しい腹痛を起こす虫垂破裂が起こっても痛みを感じなかったために、危うく命を失うところだった人もある。また、別の人は、脚の骨にひびが入っているのにそのまま歩きつづけ、ついに完全骨折に至っている≪*≫』  これに続く数十ページを、ぼくは食い入るように読んだ。病名は�無痛覚症�という。こんな病気が本当に存在するのだ。確かめたかったのは、そのことだった。  ぼくは本を棚へ戻し、視点を宙に結んだまま、その場でしばらく物思いに耽《ふけ》った。あまりにも奇妙なので思い違いだと決めつけていた古い記憶が、はっきりとした輪郭を持ち始める。  するとあの日、ミズヒコがやってみせたことは性質《たち》の悪い冗談でもトリックでもなかったのだ……。  一日中薄暗いということの他にもう一点、ミズヒコの家には際立った特徴があった。それは背後に聳《そび》えている製菓工場から漂ってくる、甘い匂《にお》いだ。ある時は砂糖の焦げるような、空腹にこたえる匂い。またある時は、チューインガムに添加するミントやジューシーフルーツの香り。キャラメルのバニラや、チョコレートのミルクが香ることもあった。  これらの匂いは時間帯や風向きによって様々に変化しながら、終日ミズヒコの家を包み込んでいた。工場が二十四時間稼働であるために、真夜中でもその匂いが途絶えることはなかったはずだ。  薄暗さと、甘い菓子の香り。この二つの組み合わせは、今考えてみると、小学校五年生の少年たちが遊ぶ環境としてはおよそ似つかわしくなく、むしろ犯罪めいた悪事を連想させる。しかしだからこそ、かえってぼくはミズヒコの家を好んで訪れていたのかもしれない。一方ミズヒコは暗さにも匂いにも慣れっこになっている様子で、いつもごく自然に振るまっていたが、この環境が彼自身の性質に何の影響も与えなかったとは言い切れない。晴れた午後に裸電球をひとつ灯《とも》した室内にぽつりと座り、菓子の匂いを嗅《か》ぎ続けている少年がどんな性格になるのか。何となく想像がつきそうではないか。  その日もぼくはミズヒコの家に立ち寄り、大人たちの存在しない気儘《きまま》な時間と空間を楽しんでいた。別に特定の面白い遊びに興じるというわけではなく、ただ何となく時間を過ごしていただけのような気がする。寝ころんでぼんやりと菓子の匂いを嗅いだり、本棚や机の引出しを漁《あさ》ってみたり……トランプくらいはしたかもしれないが、あまりはっきりとした記憶はない。 「君はどうして外で遊ばないんだ?」  その部屋の居心地のよさを十分理解した上で、あえてぼくは尋ねた。別に他意はなく、不自然なほど内弁慶なミズヒコの態度が、ただ不思議だったのだろう。顎を引いてうつむいた姿勢のまま、ミズヒコは瞳《ひとみ》だけをくるりとこちらへ向けた。�上目遣い�と呼んでしまうと卑屈な印象が否めないが、ミズヒコのそれはむしろ相手を威嚇《いかく》するような強い光を湛《たた》えていた。顔の造作こそ今ではほとんど思い出せないが、この鋭い眼光と透き通ったボーイソプラノの声質は忘れられない。 「誰にも言わないかい」  しばらくの間を置いて、ミズヒコは訊《き》き返してきた。消え入りそうな小声だが、澄んでいるためにすぐ耳元で囁《ささや》かれているような錯覚を与える。 「ぼくはちょっと普通じゃないんだ」  その時ぼくらは折り畳み式の安っぽい御膳《おぜん》を隔てて、向かい合わせに座っていた。ミズヒコの背後には天井まで届く丈高い本棚があって、大小様々な本が整然と並んでいた。そこに背を凭《もた》れ、気だるそうにうつむいていると、ミズヒコはまるでそれらの本の支配者であるかのように見える。ぼくは子供心に、ミズヒコが何かを告白しようとしている気配を感じ取り、少なからず緊張した。 「病気なんだよ……」  言いながらミズヒコは本棚の脇《わき》に据えてある文机の方へ這《は》って行き、引出しを開けた。そして卓上のランプを点《つ》けて中を探り、何か銀色のきらきら輝くものを取り出した。  裁縫針、と最初は思ったが、よくよく目を凝らすと基の部分がバルブ金具になっており、注射針であることが知れた。学校の予防接種などで使うものと比べるとかなり大型で、針の長さが大人の中指ほどもある。  ミズヒコはその注射針を持って本棚の前へ戻り、  ——見てなよ。  と瞳でぼくに伝えた。そしてシャツの袖《そで》を捲《まく》り上げ、注射針の先を嘗《な》めると、左腕にぐっと突き刺した。二センチほど入れて針の先端を上向きにし、また力を籠《こ》める。針を刺した位置より三センチほど先の肉の中から、先端部分がにゅっと飛び出す。家庭科の時間に雑巾《ぞうきん》を縫うような要領で、ミズヒコは自分の左腕を縫って見せたのだ。 「ほら」  無造作に左腕をぼくの方へ突き出す。肉の間にしっかり突き刺さった注射針は、気味の悪いワッペンのようだ。ぼくは一部始終を唖然《あぜん》として見送っていたのだが、この時になってようやく我に返り、不安よりも先に好奇心の虜《とりこ》になった。身を乗り出し、おそるおそるミズヒコの左腕に触ってみる。 「痛くないの……?」  尋ねるとミズヒコはつまらなそうに首を振り、 「痛くないんだ。体じゅうどこも」  そう言って注射針を引き抜いた。とたんに肌に開いた穴から血が二筋、勢いよく流れ出して御膳の上へ滴る。 「でも血が出てる」 「血は出るけど、痛くはないんだ」  顔色ひとつ変えずにミズヒコは答え、一旦《いつたん》引き抜いた注射針を今度は半ズボンから剥《む》き出しになった自分の太腿《ふともも》に向かって投げつけた。針はちょうどダーツの矢のように音もなく突き刺さり、投擲《とうてき》の余韻で尻《しり》の部分をゆらゆらさせた。それを引き抜いて、また投げる。引き抜いて、投げる。みるみるミズヒコの太腿は血の滲《にじ》む傷跡だらけになった。 「こんなふうに体に傷をつけると、母さんにひどく怒られるのさ。だから表で遊べないんだよ……」 「もうよせよ」  乾いた声で、ぼくは言った。それでもなおミズヒコは執拗《しつよう》に自分の太腿を傷《いた》めつける。 「……母さんに怒られるんだろ」  その一言で、ようやくミズヒコは針を投げる手を止めた。そしてぐったりした様子で本棚に寄りかかり、自分の病気について独り言のように呟《つぶや》くのだった。  その後の会話については、残念ながら曖昧《あいまい》な記憶しか残っていない。おぼろげに覚えているのは、ミズヒコに協力を求められたことくらいだ。体が傷ついているのに気付いていない様子だったら、指摘してくれないかと。そんな内容のことを頼まれたような気がする。もちろんぼくは了承しただろう。はっきりと覚えてはいないが、嫌だと断れるような雰囲気ではなかったのだから。  書店で医学書を調べた帰途、ぼくは父親に小用があって実家へ立ち寄った。  生憎《あいにく》父親は不在で、退屈そうにお茶を飲んでいる母が一人、喜んでぼくを迎えた。帰宅を待つ間、母と差し向かいで菓子をつまんでいる時に、ふと思いついてミズヒコのことを尋ねてみた。もしかしたら彼の苗字《みようじ》くらいは覚えているかもしれない、と思ったのだ。 「ミズヒコ……ねえ」  母はそのあだ名を口の中で何度か繰り返した後、 「そんな子いたかしら」  と、さも不思議そうな顔をして見せた。 「五年生の一年間、ぼくがよく遊びに行っていた家の子だよ。覚えてないかな。たぶん一度や二度は、家にも連れて来たことがあると思うんだけど」 「ずいぶん前のことだものねえ」 「顔色の悪い、病弱そうな奴《やつ》だよ。ひょっとしたら片親かもしれない」 「背は低いのかしら?」 「ぼくよりは低かったと思う。妙な体質を持っていてね、無痛覚症と言うんだけど。痛みを感じない体質だった……そういうクラスメートのこと、PTAなんかで噂《うわさ》にならなかった?」 「そんな妙な話、今初めて聞きますよ。あの頃あなたが遊んでいた友達と言ったら、みんな元気な子ばかりで……」  それほど期待して尋ねたわけでもなかったが、少々がっかりしてしまった。名前は思い出せないまでも、母親として息子の友人の面影くらいは記憶しているだろうと踏んでいたのだ。しかしそれを彼女に強いるのは酷かもしれない。当のぼく自身が、ついこの間まで忘れさっていた人物なのだから。 「製菓工場のそばに住んでた鍵《かぎ》っ子《こ》なんだけどなあ。家へ行くと、いつも良い匂いがして……」  あきらめ切れずに呟くと、母親は好奇心をくすぐられたらしく、 「良い匂い、って?」  と訊き返してきた。 「だからお菓子のさ。ほら大きな製菓工場があったじゃないか。ミズヒコはあのすぐ裏に住んでいたんだよ」 「製菓工場って……嫌だわあなた、何言ってるの」  母親は表情を崩して急に笑い出した。ぼくはその真意が分からず、首をかしげて笑い声を遣り過ごした。 「……何が可笑《おか》しいのさ」 「だって、あの工場でしょう。セイカはセイカでも、靴を作る製靴工場ですよ」 「靴?」 「そうよ。良い匂いどころか、ゴムや革の嫌な臭《にお》いがしてたじゃないの。ご近所からしょっちゅう苦情が出てて、問題になってたんですよ。あれがお菓子の匂いだなんて、ああ可笑しい」  母親は込み上げてくる笑いのために、言葉を震わせた。しかしぼくは何か黒いものを投げつけられたような驚きに撲《う》たれ、茫然《ぼうぜん》とするばかりだった。 「靴……? そんなはずないよ」  何とか否定しようとして口を開いたが、記憶を手繰《たぐ》ろうとすればするほど頭が混乱して、すべてが曖昧になっていく。本当にぼくは良い匂いを嗅いだろうか? 本当にミズヒコの家は菓子の香りに満ちていたか? それは単に�セイカ工場�という単語だけを記憶していたために、後から勝手に脚色したことではないのか?  そんなふうに一つ一つ自問していくと、あらゆることが磨《す》り硝子《ガラス》の向こう側にうずくまる人影のように、顔のない不確かな印象しか残っていないのだ。ミズヒコという人物自体が、現実に存在したのだろうか……それすらも疑わしく思えてしまうほどに。  ミズヒコから無痛覚症のことを聞いた後、ぼくは以前ほど彼の家を訪れなくなった。あの日の注射針の一件が、さすがに衝撃的だったのだろう。ぜんたい架空の出来事を、これほど鮮烈に記憶できるものだろうか。もしミズヒコという人物が存在しないのだとしたら、ぼくは自らの想像力にあらためて驚嘆しなければならない。例の�頭上恐怖症�というやつも、自分の想像力が創り出した形のない影に脅えているということになってしまうではないか……。  それが架空の出来事でないものだとして記憶に従うと、その後のミズヒコに関する思い出は、ぼくが他の地へ転校する少し前のことになる。  夏の或《あ》る日、下校時にミズヒコがぼくを追って来て、ランドセルの中から取り出した物を自慢げに見せたことがあった。 「いいだろう、これ」  彼は確かそんなふうに言った。例の事件以来、少しずつ疎遠になってしまったぼくの気持を、何とかして自分に向かせようとする下心があったのかもしれない。  小さな上水路に沿って続いている雑木林の中を、ぼくらは歩いていた。ミズヒコの澄んだ小声が聞き取れないほどの蝉《せみ》時雨《しぐれ》が、あたりを満たしている。  ミズヒコがランドセルの中から取り出したのは、一個の白い球だった。手渡されてじっと見つめていると、周囲の蝉時雨がその球に向かって滲《し》みていくような錯覚がある。 「きれいだろう、つるつるしてて」  いつになくはしゃいだ調子で、ミズヒコが言う。確かにその白い球は美しく、今まで手にしたことのない重さと肌触りを備えていた。 「何だいこれ」  しばらく球の手触りを楽しんだ後、ぼくは尋ねた。 「象牙《ぞうげ》だよ。象の牙《きば》さ」 「ゾウのキバ? 嘘《うそ》だよそんなの。だって丸いじゃないか」 「だから丸くしたんだよ。機械を使って」 「どうして」 「……きれいだからさ」  ぼくはどうしても納得できずに、子細に球を眺め回した。そこにはあの細長くて先の尖《とが》った象の牙の面影は、微塵《みじん》もなかった。 「あげるよ」  ミズヒコはぼくの反応を推しはかるようにゆっくりと言った。例の強い光を湛《たた》えた瞳《ひとみ》が、上目遣いにこちらを見つめている。 「ぼくの家にもう一個あるから、これは君にあげる」  ぼくは表面上遠慮したものの、内心は思いがけぬ幸運に胸がどきどきしてしまうほどだった。 「これ、本当に象の牙かい」 「本当さ」  ぼくらは肩を寄せ合い、ひとつの球を渡したり渡されたりしながら雑本林を歩いた。そしてそのまま久し振りにミズヒコの家へ立ち寄り、もうひとつの白い球を見せてもらった。比べてみるとふたつの白球は、ただ一点を除いては大きさといい重さといいそっくり同じものだった。 「何だろう、この黒子《ほくろ》みたいなの」  ぼくはミズヒコの白球を観察した後、表面に薄く刻まれた黒い点について訊《き》いた。今考えてみれば、それはビリヤード球の手球を区別するためのマークだったのだ。 「きっと傷だよ。象が戦って、牙に傷がついてたんだ」  ミズヒコの豊かな想像力は、ぼくを大いに喜ばせた。それからぼくらはそれぞれの球を手拭《てぬぐ》いできれいに磨き上げ、二人の間だけで通用する独特の遊び方を編み出すことに熱中した……。  その後、ミズヒコの身上にどんな変化があったのかぼくは知らない。いや、当時は薄々感じていたのかもしれないが、記憶としては残っていない。ただ覚えているのは、ミズヒコがかなり長期にわたって欠席をしたということだけだ。  何日か、何週間か後に訪ねた時、ぼくはミズヒコの家の様子がすっかり変わっていることに驚いてしまった。まず例の大きな本棚が蔵書もろともなくなっていた。文机も、箪笥《たんす》もだ。室内はがらんとして居心地が悪く、部屋の真ん中で小さな鐘を鳴らせばその音が隅々まで響き渡りそうな感じだった。  ミズヒコは元本棚のあった位置に布団を敷き、ついさっきまで臥《ふ》せっていたらしい。元気な様子だったが、顔色だけがおそろしく悪かったのを覚えている。  どうして休んだのか、具合はどうなのか、何故《なぜ》この部屋は様子が変わったのか。そんなことをぼくは尋ねたのだと思う。その内ふと例の白球のことを思い出し、室内を見回す。それはミズヒコが胡座《あぐら》をかいている布団の枕元《まくらもと》に、ひっそりと転がっていた。  一瞬、違う球かと思って目を凝らしたのには訳がある。表面に無数の黒い点が打たれ、ずいぶん汚らしい印象があったのだ。  注視し、しきりに首をかしげていると、ミズヒコはぼくの視線がどこに注がれているのか気付いたらしく、球を手に取ってこちらへ放った。間近に眺めると表面の黒い点は、描いたものではなく、細い錐《きり》のようなもので穿《うが》った穴だった。気の狂った蟻《あり》たちが食い荒らしたような、無数の穴……。  この硬くてしかも滑っこい球にこれだけの穴を穿つとは、何という暗い情熱だろう。ぼくはミズヒコの異様な執着をそこに感じ取り、尋ねるのが恐ろしくなってしまった。指先で球の表面をなぞると、ぷつぷつした感触が間断なく伝わり、全身が粟立《あわだ》ってくる。つるつるしていてきれいだ、と球について言っていたミズヒコが何故そんなことをするのか、ぼくにはどうしても理解できなかった。  だから、その時ぼくは何も訊かずに帰ったのだと思う。ミズヒコもたぶん自発的には説明を加えなかったはずだ。ただぼくの指先には、球に穿たれた無数の穴の感触がいつまでも残っていて、例えば二十年近く経った今でもはっきりと思い出せるほどなのだ。  ぼくがミズヒコと最後に会ったのは、それから二週間ほど後。ぼくの家が引越をする前日かその当日の朝だった。この時の出来事は小学校五年当時の記憶をあれこれと反芻《はんすう》していく内に、より鮮明な輪郭を備えてきた。玉葱《たまねぎ》のように層を成す薄皮を一枚一枚|剥《は》がしていくと、芯《しん》に当たる部分に隠れていたのがこの日のことなのだ。  ミズヒコは相変わらず欠席を続けていて、訪ねていくとあの薄暗い部屋に一人、布団を敷いて横になっていた。傍目《はため》にも辛そうな様子でひどく衰弱し、とても一人で放っておけるような状態ではなかったように思う。その姿を見たとたん、ぼくはこれから引越して二度と会えなくなると告げるのが躊躇《ためら》われてしまった。  ぼくらは、言葉少なに学校のことや、最近見たテレビのことを語り合い、その内話題に行き詰まって黙り込んだ。 「あの象牙の球、大事にしてるかい」  短い沈黙の後、ミズヒコがそう尋ねた。遅かれ早かれそのことを訊いてくるのではないかという予感はあった。ぼくはうなずき、自分の机の一番上の引出しにしまってある、と答えた。  しかし本当は、引越の荷作りをする際にあっさり棄ててしまったのだ。あの白いつるつるした球を持っていることは、無数の穴を穿ったミズヒコの球と細い糸で繋《つな》がっているかのような薄気味悪さがあった。もし棄てずに引越先まで持って行ってしまったら、却《かえ》って後悔しそうな気がしたのだ。 「ぼくの球、見たいかい」  さらにミズヒコはそう訊いてきた。ぼくの返答を待たずに枕元に置いてあった木箱を引き寄せ、素早く蓋《ふた》を開けて逆さにする。何か銀色のものが、箱の中から転がり落ちてくる。鈍い音を立てて、敷布団の上に静止する。  それは、一見してウニのような形をしたものだった。あの白い球の美しさや、滑らかな印象とはまるきり対極にある。  球に穿った無数の穴へ、銀色の真新しい針を一本一本埋め込んだもの……そう説明すれば正確だろうか。例の注射針と同じほどの、太い針だ。切っ先はすべて外へ向けて輝いており、とても正視できない。醜悪で凶暴な印象が、直接神経に障るのだ。銃や刃物などが放つ危険な雰囲気など比べものにならないほど、それは正に人を傷つける意志に満ちた道具だった。  ぼくは長く見つめることができずにその奇妙なウニ球から目を逸らし、しばらく言葉を失った。ミズヒコはそんなぼくの様子を楽しむかのように微笑《ほほえ》んでいたが、やがて立ち上がると台所から小ぶりの西瓜《すいか》を抱えて戻ってきた。瞬間、その真意をはかりかねて緊張が緩みかける。ミズヒコは微笑みを絶やさずに、ぼくの目の前に西瓜を置くと、 「すごいんだよ、これ」  無邪気な調子で言うなり針だらけのウニ球を無造作に握りしめ、目の高さまで持っていった。足元の西瓜に狙《ねら》いを定め、ぽとりと落として見せる。  それは鈍い、汁気を含んだ音を立てて西瓜に突き刺さった。ぼくは脊髄《せきずい》の中を蛇が這《は》っていくような、堪えがたい悪寒に身を震わせた。ミズヒコは傷ついた掌《てのひら》の血を嘗《な》めながら、空いた方の手をウニ球へ伸ばす。西瓜から引っこ抜いて、ごく普通の野球ボールのように弄《もてあそ》ぶ。今にもぼくに向かって投げつけるのではないかと、気が気ではなかった。 「どうするんだよ、そんなもの」  目立たないように後ずさりしながら、ぼくは訊いた。我ながら脅えた声だった。 「おもしろいだろう……?」  無数の針が掌へ突き刺さるのも構わず、ウニ球を握る指先に力を籠《こ》めてミズヒコは言った。放っておいたら、手の甲を貫いて針先が飛び出してきそうだ。 「止《よ》しなよッ」 「ずいぶん前に、デパートの屋上へ行ったことがあるんだ。一人でさ。君、行ったことあるかい、デパートの屋上」 「止しなってば」 「……あの上から眺めるとさ、下の道を歩く人がいっぱい見えるんだよ。蟻みたいなんだぜ。その時ぼく、ガムを噛《か》んでてね。屋上からペッて、吐き棄てたんだよ。ガムが落ちていくのがずうっと見えた。ずうっと……下の歩道までさ」  見る見るミズヒコの掌から鮮血が滴る。まるで赤い生物のように、手首から肘《ひじ》へ向かって幾筋にも分かれて流れ落ちていく。 「でも誰にも当たらなかった。その時はね」  言いながらミズヒコは指を開いた。ウニ球はしばらく掌に突き刺さったままゆらゆらと揺れていたが、やがて自らの重みに引っ張られて落下した。足元の西瓜に、もう一度突き刺さる。その衝撃で、縞《しま》模様の表面に深い亀裂《きれつ》が走る。  ぼくは弾かれたように立ち上がり、玄関へ向かって駆け出した。そして扉へ体当たりして表へ出、ただの一度も振り返らずに自分の家まで走った……。  もう二十年も前の話だ。思い出したからといって、このことに拘泥《こうでい》するつもりは毛頭ない。おそらくまた次の二十年が経てば、すべて忘れ去ってしまうだろう。  しかしながら今、心の奥に拭《ぬぐ》い切れない何かが蟠《わだかま》るのは、やはり母親によって指摘された�セイカ工場�の記憶違いが気にかかっているからだと思う。どうしてぼくはミズヒコの家で、バニラやミルクの甘い匂《にお》いを嗅《か》いだと記憶しているのだろう。ミズヒコにまつわる逸話の性質からしても、そこに漂っていた匂いを美化する要因は皆無であるように思えるのだが。  あるいはすべてが、ぼくの頭の中だけで起きた出来事なのだとしたら? ミズヒコという友人自体が、幼いぼくの想像力が生み出した架空の人物なのだとしたら?  いずれにしてもぼくの頭上恐怖症は治癒するどころか、ミズヒコとその暗い情熱が作り出した針まみれのウニ球を思い出すことにより、かえって悪化してしまったようなのだ。ミズヒコは言葉通り、あのウニ球をデパートの屋上から投げたろうか。それとも木箱にひっそりと仕舞い込んだまま、投げる機会を窺《うかが》っている内に虫垂炎になって死んだろうか。あるいはもともとミズヒコなどという人物は存在せず、ウニ球を投げてみたいと思っていたのはぼく自身なのだろうか。  高い建物の脇《わき》を通り抜けるたび、ぼくは刺すような胸騒ぎとともに頭上をふり仰ぐ。その屋上に、一体誰が立っているのか。地上からでは、結局確かめようがないのだ……。 *引用文献 『痛みへの挑戦』R・メルザック/P・T・ウォール著、中村嘉男監訳、誠信書房、一九八六年  削 除  まず、自分の肩が見えた。その上へ頬《ほお》を載せて、ぼくは横たわっている。両手を胸の前で軽く握り、膝《ひざ》を曲げて、胎児のような姿勢を作っている。  頭まですっぽり被った掛け布団の温もり。身じろぎを柔らかく押し返してくるマットの感触。そして自分の吐く息の音。丸めていた身体をゆるゆると伸ばしながら、ぼくは鈍く目覚めていく。  眩《まぶ》しさに顔を顰《しか》め、寝返りをうつ。たった今まで見ていた夢の内容を、忘れかけている。いつものことだ。慌てて取り戻そうとしても、手応えもなく消えてしまう。  もう一度、寝返りをうつ。  何だろう? 妙な感じがする。女物のシャツを着てボタンをとめているような、ちょっとした違和感がある。どこか身体の具合が悪いのか、あるいは今忘れた夢のせいなのか……何かがしっくりこない。  掛け布団から顔を覗《のぞ》かせると、冷え切った空気が肌を撲《う》った。ぼやけていた意識が、ふっと引きしまる。とたんにぼくは思い出す。視界の隅を卓上時計が掠《かす》めたのだ。慌てて起き上がり、時間を確かめる。  十時五分。  一瞬、呆気《あつけ》にとられてしまう。どうして今頃まで……アラームのセットを忘れたのだろうか。  掛け布団をはねのけ、転がるような勢いでベッドを出る。カーペットの上に散らばった服を掻《か》き集め、大慌てで着る。机の上の鉛筆を二、三本ひっつかんで、尻《しり》ポケットに差し込む。鞄《かばん》は? 足元を見回すが、すぐに諦《あきら》めてジャンパーを羽織る。そして部屋を飛び出す。  十時二十分からフランス語の試験が始まるはずだった。動詞変化の筆記で、どう考えても出来がいいはずはなかったが、とにかく試験さえ受ければ単位はもらえる授業なのだ。  玄関の扉を後ろ手に閉め、鍵《かぎ》もかけずに階段を駆け下りる。寝起きのせいか、膝が笑いそうだ。焦っている意識と、体とが上手く馴染《なじ》んでいない。  階段を下り切った突き当たりのブロック塀に、自転車が立てかけてある。スタンドを蹴《け》り上げて飛び乗ると、ハンドルが思いのほか冷たかった。握りの部分にはゴムが被せてあるのに、まるで金属のように冷え切っている。サドルからもひんやりした硬い感触が尻に伝わってくる。アパートの前は緩い下り坂だ。ぼくは力強くペダルを踏み始める。とたんに真正面から細かい針を含んだような風が吹きつけてくる。  手袋をしてくるんだったな。  後悔するのと同時に、奇妙な胸騒ぎがした。何かもっと大事なものを部屋に忘れてきたような気がする。いや、それは�もの�ではなく、誰かと交わした大切な約束だったか……。ぼくはペダルを踏む足を止め、ぼんやりと考えあぐねながら、惰性で坂を下っていく。  何だったろう?  しかし思い当たるふしはない。もっとも思い出せたところで、今さら引き返す暇などなかったが。  再びペダルを踏んで坂を下り切る。突き当たりを右へ折れ、都電の線路沿いに十分ほど走れば、大学が見えてくる。全力でペダルを漕《こ》げば、五分遅れくらいで教室へ入れるだろう。  二月の、多分一番寒い日だ。  見上げると空は、異様なほど澄みわたっている。雲がひとつもない。まるで絵に描いたような空だ。  都電通りを二十メートルほど走ったところで、ぼくはペダルを踏む足を止めた。チェーンが空回りする油っこい金属音が、辺りに響く。あらためて周囲を見回す。  何かが変だ。  聞こえるのはチェーンの音と、ぼくの息遣いだけ……静かすぎるのだ。普段なら気にも留めずにやりすごしている街の様々なざわめきが、えぐり取ったようになくなっている。ぼくはブレーキに指をかけて握った。自転車のスピードは徐々に弱まっていき、やがてべアリングがきいと鳴って止まった。  それで一切の音が消えた。  ぼくは片足をついて伸び上がるようにし、線路沿いの真直ぐな道を見晴らした。それから体をひねり、自分が今走ってきた道を振り返った。  誰もいない。  物の動く気配がまったくないのだ。いつもならぼくと同じ大学へ通う学生たちの姿が、切れ目なく続いているはずの道なのに。主婦やサラリーマン、工事夫、子供……それどころか犬猫の姿さえ見えない。もちろん車も走っていない。道端に停めてある車は数台あるけれどドライバーの姿はなく、置き去りにされた感じだ。  じっとしていることに耐えられなくなって、再びゆっくりとペダルを漕ぎ始める。タイヤのゴムが路面の細かい砂を踏み過ぎる音や、逆回転させるチェーンの几帳面《きちようめん》な音……。走りながらぼくは、今置かれている状況を把握しようとするどころか、逆に何とか自分をごまかせないものかと考えた。まるで真夜中に目覚めてしまった子供が、闇《やみ》の中へ目を凝らせないように。  確かめるのが恐くて、結局ぼくは大学の校舎が見え始める辺りまで、ゆるゆると走り続けてしまった。家並みの向こうに、正門前の講堂の屋根が唐突に高く突き出している。  やはりこれは単なる偶然なのではないだろうか?  自分でも分かるほど唇の端を吊《つ》り上げて、にやにや笑いながらそう思う。  何億分の一の確率かもしれないが、数分間だけ、この界隈《かいわい》の人通りが完全に途切れているだけなんじゃないのか? もう少し行ったら、例えばあの路地から子供が飛び出してくるかもしれない。あるいは自動車が急に背後から追い越しをかけて、猛烈なスピードでぼくの髪を揺らすかもしれない……。  振り返ってもう一度背後を確かめる。が、そこには先程と同じ静止した風景が広がっているだけだ。五百メートルほども見通せる一直線の道が、路面電車の線路に沿って、何の気配もなくただ真っ直ぐに延びている。視線を正面に戻しても、同じことだ。道の両脇《りようわき》に林立している民家やマンション、小さな貸しビルなどの窓は一つ残らず閉ざされ、一枚の写真のようだ。  無理に装っていたにやにや笑いが、次第にこわばってくる。  と、視界の隅を、何かの動きが掠めた。慌てて目を凝らす。二、三百メートル先の信号が変わったらしい。青から、黄色へ。自転車の速度を上げながら意識を集中する。続いて今度は黄色から赤へ、その信号は確かに変わった。大学の正門へ折れる、いつもの交差点だ。  ぼくは必死でペダルを漕ぎ、信号の真下に止まる。後ろへ反り返るような恰好《かつこう》で見上げる内に、それは赤から青に変わった。耳を澄ますと、微かだが音も聞こえる。色が変わる瞬間に、かちりとストップウォッチを押すような音がする。  首が痛くなるまでそうしていてから、ようやくぼくは視線を下ろした。自分の吐く白い息の向こう側に、さっきと同じ沈黙の街が広がっている。  何が起きたのだろう?  考えあぐねながら、またペダルを漕ぎ始める。信号を右へ、緩い上り坂を百メートルほど行けば、さっき遠目に見えた講堂の前へ出るはずだった。  この地区周辺の住民が、何らかの理由で一時的にどこかへ避難する事態は想定できないだろうか。例えば大地震の予報、あるいは核ミサイルがこの地区へ落ちてくるという確かなニュース……。考えられないことではない。しかし、だとしてもこんな短時間に一人残らず避難しきれるものだろうか。しかもぼくだけを残して。犬猫までもが見当たらないのは、どう説明すればいいのか。  思いついてぼくは空を仰ぐ。部屋を出た時と変わらぬ晴天——青すぎて、作りもののようだ。鳥の姿も見えない。いつもなら講堂の屋根裏を根城にしている鳩たちの姿が、電線や道端に散っているはずだった。昨日の夕方は確かにいた。アパートへの帰り道、自転車でこの坂を下る時に、パン屑《くず》をついばむ鳩たちが驚いて一気に飛び立つのを見た記憶がある。  恐ろしさというよりも焦燥に駆り立てられて、ぼくは自転車のスピードを上げた。両側に軒を並べる学生相手の商店の中へ、ちらちらと視線を投げながら、力一杯ペダルを踏む。確かめてみると、どの店も電灯が点《つ》いている。喫茶店の扉には「営業中」の札が下がり、店の前はたった今掃いたばかりのようにきれいになっている。レストランも本屋も酒屋も、同じ状態だ。  しかしその整然とした様子は、かえってぼくを混乱させる。  左手前方にようやく講堂が見え始めた。ぼくはほんの少しほっとして、その見慣れた建物を懐かしく眺めやった。そして右へ体重を傾けながらハンドルを切り、正門を潜る。  やはり誰もいない。  ぼくは一旦《いつたん》自転車を止め、片足をついて講内を見回した。どこか様子が違うのだ。学生たちの姿が見えないだけではない。何かがいつもと違う。  ぼくは自転車を降り、それを押し始めた。校舎に向かって伸びているスロープをゆっくり上がりながら、小さく咳《せき》をし、すがるような思いで耳を澄ます。何の音もない。大声で誰かを呼んでみようかとも思ったが、とてもできそうにない。きっとぼくの声は虚しく反響し、後にはより深い静けさが沈殿するに違いない。  ふと顔を上げると、ぼくはいつのまにか一五一教室の前まで来ていた。例のフランス語の試験が行われる予定の教室だ。思いついて振り返り、連絡掲示板の上の大時計を眺めやる。  十時三十分。時計は確かに動いている。  ぼくは自転車のスタンドを下ろして停め、教室の扉へ向かいかけて、急に躊躇《ためら》った。この日初めて、恐ろしさが胸をよぎったのだ。何かとんでもないものが、扉の向こう側で待ち受けているような気がする。すべての人間を消滅させ、最後の一人であるぼくを今まさに捕らえようとして、息をひそめている何かが……。  ぼくはすぐに後退できるよう身構え、思い切って扉を開けた。  擂鉢《すりばち》状に配列された座席が、まず目に入る。続いて教壇と黒板。防音の施された壁と、天井。ぼくは中へ足を一歩、踏み入れる。  からっぽだ。  表よりは少しだけ暖かい空気が、ゆったりと揺れて頬《ほお》を撫《な》でる。床のリノリウムから、塗り立てのワックスの匂《にお》いが立ち上がってくる。ぼくは貼《は》りついたようにその場に立ち竦《すく》む。とにかく教室まで行ってみようという思いが、ここでふっつりと断ち切られてしまったわけだ。次に何をすべきなのか、考えなければならない。  振り向くと連絡掲示板の上の大時計は、十時三十二分を指している。  昨夜ぼくが寝たのは午前二時半。闇の中でうとうとし始めるその間際まで、モルタルの壁一枚隔てた隣室の話し声が聞こえていたから、あの時点では何も起きていなかったはずだ。ということは、ぼくが眠ってしまってから現時点までの八時間の間に�何か�は起きたのだ。  考えながら自転車の方へ歩き出そうとした矢先、ぼくの視線は釘《くぎ》づけになる。購買部脇にある電話ボックスに気づいたのだ。その四角い無機的な箱を見据えながら、初めはゆっくりと歩きだす。しかし抑えることができずに小走りになっていき、やがて五階建ての校舎の壁面に足音を高く響かせて駆け出してしまう。電話ボックスまでがふっと掻《か》き消えてしまうような錯覚にとらわれ、気が気ではなかった。  ボックスの中へ駆け込み、息を弾ませながら尻《しり》ポケットを探る。指先に鉛筆が触れた。左側のポケットには何も入っていない。前ポケットも、ジャンパーのポケットも空だ。慌てて部屋を飛び出してきた自分を思い出し、その場に座り込みそうなほど落胆する。しかしすぐに気を取り直して、無駄とは思いながらも返却口へ指を差し入れる。そして何の手応えもないことを確かめると、顔を上げ、電話機脇に取りつけられた非常用ダイアルを見つめる。 �強く押してください�  ちょうど目の高さに、ストッパーを解除する赤いボタンがある。一旦は受話器を手に取ったものの、そのままの姿勢でぼくは躊躇った。こんな事態に陥っているにもかかわらず、その赤いボタンを押すことはやはり気後れがする。  ぼくは言い訳のような繰り言を脈絡もなく口の中で呟《つぶや》きながら、ボックスのガラス越しにもう一度だけ構内を見渡した。そして相変わらず誰もいないことを確かめると、思い切って解除ボタンを押した。続けて、迷う間を自分に与えないように素早く、生まれて初めて一一〇番を押した。  受話器を耳に押し当て、息をひそめて待つ。ありがたいことに呼出音はすぐに響き始めた。普段よりも強く、鋭く三回響く。そして四回めが響く寸前に、繋《つな》がった。 「はい一一〇番です」  深みのある、中年男性の声だ。思わずぼくは絶句してしまう。 「どうしました?」  続けてその声は尋ねた。同情とも威嚇とも取れる、微妙なニュアンスを含んだ声色だ。 「あの……」  何をどう説明すればいいのか分からずに、ぼくは口籠《くちごも》ってしまう。 「どうしたんですか?」 「あの……今日、今、都内で……住民が避難するような騒ぎは起きていますか?」 「何です?」 「いえ、あの……つまり……」 「慌てないで、ゆっくり話して下さい。何があったんです?」 「いや、そうじゃなくて。何があったのか、ぼくが知りたいんです。あの……今、新宿区にいるんですけど……ええと、ここは牛込《うしごめ》になるのかな。嘘《うそ》じゃないんです。本当にこの辺りの住民が誰もいなくて……」 「何をおっしゃってるんです?」  相手の声の調子が、初めとは明らかに変わった。それは単純な計算を間違えた子供に対する、教師のような声色だ。 「いえ……本当に……」  ぼくは口籠りながら、救いを求めるように辺りを見回した。石畳、木製のベンチ、灰色の校舎……。 「もしもし? 誰もいないなんて、そんなはずないでしょう。近くの交番へ行ってみましたか」 「え? いいえ。交番はまだちょっと……ただそのう……」 「あ、じゃあお家の方ですか? どなたかご家族の方がいなくなったんですか?」  相手の男は自分の思いつきに勢いを得て尋ねてきた。確かに、そう誤解するのも無理はない。ぼくは半ば失望し、同時に苛立《いらだ》たしさのあまり震えそうになる。 「そうじゃないんです。もういいです」 「ちょっと待って下さい。もしもし? もしもし……」  追いすがるように呼び続ける男の声から耳を遠ざけて、受話器をフックに掛ける。一瞬、金属とプラスチックが触れ合う硬質な音が響き、それからボックスの中はしんと静まり返った。  逃げるように扉を押して表へ出、購買部の方へ歩き始めながら、今の会話を反芻《はんすう》してみる。警察が知らないということは、やはり何も起きていないのだろうか。それともまだ通報されていないだけなのか。あるいは警察が事態を隠しているか……。  混乱した気分のまま、ぼくは購買部の入り口に立って中を見回した。他と同じ、人気《ひとけ》のないがらんどうだ。十坪ほどのスペースの左半分は書籍、右側は日用雑貨のコーナー、手前にはレジがある。  思いついてレジに近寄り、たくさん並んだボタンのひとつを当てずっぽうに押してみる。思わず身を硬くするほどのカン高いベルの音が響き、キャッシャーが手前へ飛び出してくる。覗《のぞ》き込むと、金は入ったままだ。二、三十万……それ以上だろうか。その金額に、ぼくは他愛もなく動揺してしまう。辺りを見回し、軽い罪悪感を覚えながら、その中から百円玉と十円玉を何枚か取り出す。  両手の中で硬貨をじゃらじゃら言わせながら、電話ボックスまで戻る。多分これですべてがはっきりするだろう。アドレス帳を忘れてしまったから電話できる相手は何人もいないが、そらで暗記している番号の人間は、ぼくの言うことをまともに取り合ってくれる相手ばかりだ。  受話器を取ると、さっきぼくが握りしめていた温もりがまだ残っていた。百円玉を投入し、まず実家の番号を押す。間を置かず耳の奥で鳴り始めた呼出音を、息を詰めて聞く。五回……十回……二十回までやりすごして、受話器を掛ける。戻ってきた百円玉を入れ直して、今度は恋人の番号を押す。  彼女は大学の正門から、ぼくのアパートと反対方向へ五分ほど歩いた辺りに住んでいる。だから彼女と話ができれば、絶対に何か分かるはずだ。  呼出音が響き始めた。  いないかもしれない。もしいなかったら……。考えるだけで全身の細胞がきゅっと引き締まる。緊張ではなく、寒気のような感覚だ。冷気に晒《さら》されて知らず知らず毛穴が閉じるように、心が萎縮《いしゆく》してしまう。  不意に、奇跡のように呼出音が途切れる。 「もしもし?」  続いて聞こえてきた彼女の声が、尖《とが》ったぼくの感情を優しく撫で上げる。とたんにぼくは軟化する。いるじゃないか。そう呟きそうになる。 「もしもし?」 「あ、俺《おれ》だけど……」 「なあんだ。もう試験終わったの?」 「いや、それどころじゃないんだよ。なあ、そっち、変わったことないの?」 「変わったって? ええ? あなた今どこにいるの?」 「学校だよ。購買部の横の電話ボックスからなんだけど。あのさ、変わったことって、つまり……今日外へ出てみた?」 「外? さっき新聞取りに出たけど」 「誰かいた?」 「ええ? 何言ってるの? どうしたの」 「いや、いいから。誰かいたかどうか思い出してくれ」 「……向かいのおばさんとか、その辺の通りすがりの人ならいたけど。それがどうかしたの? 何なの、ねえ」  彼女の答えに聞き入りながら、ぼくはまた混乱しそうな自分を感じる。何故だろう。何かが噛《か》み合わないのだ。 「本当に? 確かにいた?」 「そんなこと嘘ついてどうするのよ。ねえ、教えて。何かあったの?」 「いや、会ってから説明する。これから行くけど、約束してくれ。絶対にそこを動かないって」 「いいけど……どれくらいかかる? お昼から授業があるの」 「五分で行く。とにかくそこにいてくれ」  まだ何か尋ねたそうな彼女の気配を振り切って、ぼくは受話器を置く。振り返りざま扉に肩をしたたか打ちつけるが、構わず表へ飛び出す。急げ、急げと口に出して呟きながら、幼児のようにばたばたと全身で走る。一五一教室の脇《わき》へ停めた自転車まで辿《たど》りつくと、弾む息のまま飛び乗り、思い切りペダルを踏む。構内の灰色の風景が、風音を立てて流れ始める。下りのスロープがすぐに見えてくる。ぼくはサドルに尻を当てず、競輪選手のような前傾姿勢でそこを走り抜ける。  その時、唐突にぼくは気づいた。ブレーキこそかけなかったが、走りながら左右を確かめる。  樹がないのだ。スロープの両脇に植樹されていたはずの、桜の樹が見当たらない。一本残らずなくなっている。さっき正門を潜った瞬間に、何か構内の様子がおかしいと感じたのは、そのせいだった。片側へ少し寄って確かめると、樹が植えてあった辺りの土は平らに均《なら》されており、表面にはぼんやりと霜がおりている。  瞬間、昂《たかぶ》っていた神経が、すっと醒《さ》めるような気がした。さまざまな憶測が一気に浮かび上がり、ぼくは肯定と否定とを交互に呟く。足は、無意識にペダルを踏んでいる。そして目は寒々と続く商店街を眺めているが、その実何も見ていない。  樹がないなんて……。  思考は一巡りした後、結局そこへ還ってきた。まるで円周率を果てしもなく計算しているような気分だ。やがて商店街が途切れ、道の両脇には民家や低いビルディングが続く。ぼくは必死で記憶を辿りながら、見慣れた庭や駐車場に緑を探す。  しかしどこにもない。一枚の葉、一本の草さえなくなっている。去年の六月、確かに花をつけていたはずの紫陽花《あじさい》もない。秋に恋人と見上げた柿《かき》の樹もない。駐車場の雑草も、庭の芝生もない。  すぐ先の信号が赤に変わる。無意識のうちにブレーキをかけそうになるが、すぐに思い直し、ますますスピードを上げて突っ切る。二つめの角を左へ、五十メートルほど先に彼女の住むアパートが見えてくる。  そこまで一気に疾走し、ぼくは自転車を放り出した。転びそうになりながら三段ほどの石段を上がり、彼女の部屋の扉の前に立つ。左手で激しくノックしながら、右手でノブを回す。  鍵《かぎ》はかかっていなかった。扉はあっさり手前に開き、力の余ったぼくは背後へ倒れそうになる。体勢を立て直して、今度はつんのめりそうな恰好《かつこう》で中へ入る。 「来たよ……」  声をかける。小声だったが、やけに大きく室内へ響いた。返事はない。薄暗い玄関口から中を覗き込むと、掃除したばかりのダイニングキッチンの向こうに、奥の六畳が見えた。いつもと何の変わりもない。視線を足元へ落とすと、玄関には彼女の小さな靴が何足も並んでいた。 「……俺だよ」  言いながら靴を脱ぐ。ダイニングキッチンを抜け、奥の六畳へ入る。窓のカーテンが閉まったままで、室内は薄ぼんやりと暗い。左手で壁のスイッチを探る。 「おい……」  電灯を点《つ》け、あらためて室内を見回す。  誰もいない。  ぼくは真っ青になってベッドの掛け布団を引き剥《は》がし、押し入れを開け、ダイニングキッチンへ戻ってユニットバスの扉を開ける。しかし彼女の姿はどこにもなかった。  玄関口にしゃがみ込み、ぼくはしばらくじっとしていた。どういうことなのか、よく分からない。昼から授業があると言っていたから、出てしまったのだろうか。しかし、だとしたら途中でぼくとすれ違うはずだ。大学までの道は、ぼくが今走ってきたルートしかありえない。  スニーカーの踵《かかと》を踏んでつっかけ、もう一度表へ出る。倒れている自転車の脇を素通りして、すぐ先にある公衆電話へ走り出す。ほんの数十メートルのことなのだが、堪え難く遠い。誰かがこっそり背後からついてくるような気がして、ぼくは何度も振り返った。  ポケットの小銭を探り、十円玉の感触を選び出しながらパン屋の軒先にある公衆電話に走り寄る。受話器を取る。硬貨を入れる。番号を押す。呼出音が……。 「もしもし?」  あっという間に彼女の声が響いた。ぼくは、うッと唸《うな》ったまま絶句してしまう。 「もしもし?」 「あ……俺」  考えるより先に、口が返事をしている。 「どうしたの? 待ってるのに。授業が始まっちゃうじゃない」 「君は……」  後がなかなか続かない。唾《つば》を呑《の》む。息を整える。考えようと思う。 「ねえ、どうしたの。何があったの?」 「何があったのか俺が訊《き》きたいんだ。部屋から一歩も出てないか?」 「ずっといるわよ。どうして?」 「いや、分かった。じゃあ……悪いけどそのまま、電話を切らないでいてくれる? 絶対切っちゃだめだよ。いい?」  彼女の返事を待たずに、ぼくは受話器をぶらんと吊《つ》り下げ、投入口にもう二枚十円玉を足してから全力で駆け出した。自転車の脇を抜け、石段を上がり、靴のまま彼女の部屋へ駆け込む。ダイニングキッチンを横切り、奥の六畳へ……。  黒い留守番電話が、さっと視界に飛び込んできた。サイドテーブルの上で、きちんとこちらを向いて黙っている。ぼくはその場に立ち尽くす。  いない……誰もいない。  そのままの姿勢で、ぼくはしばらく蛍光灯の低い唸りを聞いた。それから慌てて踵《きびす》を返し、再び公衆電話まで駆け戻った。心臓が弾けそうだ。吊り下がっている受話器をかがみ込んで取り上げ、耳へ押し当てる。 「もしもし?」  息切れして、声が上ずってしまう。 「はい。どう? なあに?」  心配そうな彼女の声が返ってくる。 「頼みがあるんだ」 「何? どんなこと?」 「俺の部屋まで来てくれないか。頼む。助けると思って」 「助けるって、どうしたの? どこか具合でも悪いの? ねえ」 「そう……そう具合が悪いんだ。ひどい状態なんだよ。今すぐ来てくれ。頼むよ」  彼女は一瞬考え込んだ後、力強い声で分かったと言った。すぐに行くから待っててと告げて、自分の方から電話を切った。ぼくは受話器を置き、一呼吸置いてから一層暗い気分になった。  どうやってここへ来るというんだ?  ぼくは自分をあざ笑った。どうやらここは彼女が住んでいる世界とは、違う世界らしいのだ。部屋で待ち合わせても、会えるはずがない。  返却口へ戻ってきた十円玉を入れ直して、ぼくはほんの思いつきから、自分の部屋の番号を押してみる。彼女が到着するまで、呼出音を鳴らし続けるつもりだった。  五回、十回、二十回と呼出音は虚しく響き続けた。何をやっているんだお前は。自分に言いきかせ、受話器を置こうとした瞬間、電話は突然|繋《つな》がった。 「はい、もしもし!」  走ってきたばかりのような、息せき切った声が一直線に響いてきた。 「あ?」  ぼくは息を呑む。 「もしもし? もしもし?」  それはぼくの声だ。ぼくは耳を疑い、反射的に受話器を掛けてしまう。そしてわけも分からないまま走り出す。彼女のアパートの方へ駆け戻り、倒れている自転車を起こして跨《また》がる。全力でペダルを漕《こ》ぎ始める。包丁を研ぐようなペダルの規則正しい音が周囲の町並みに弾ける。響き渡る。しかし頭の中は真っ白だ。  どうしたらいい? どうする?  いつのまにかぼくは声に出して呟《つぶや》いている。何か言わずにはいられないのだ。道はやがて下り坂にさしかかる。しかしぼくはスピードを緩めない。そのまま坂を下り切り、大通りを横切る。広い路上のあちこちに、点々と自動車が停まっている。駐車してあるというよりも、やはり置き去りにされた感じだ。  目を逸らし、細い路地に入る。振り向きたい気持を押し殺しながら、ぼくはがらんどうの街を走り続ける。一方通行を抜け、T字路を左へ。次の十字路を右へ曲がれば、ぼくのアパートのすぐ脇へ出る。無意識のうちに、自分の住処《すみか》へ向かっていたのだ。  そのことに気づいて、ぼくは急ブレーキをかけた。後輪が横滑りし、バランスを失って自転車が半回転する。足を突き出して支える暇もなく横倒しになり、次の瞬間、ぼくは肩から落ちていた。側頭部が地面に激突し、鈍い厭《いや》な音を立てる。ぼくの手を離れた自転車が、視界を横切ってすっ飛んでいく。痛みは二、三秒後にきた。  両手で頭を抱え、打った辺りを強く押さえる。血が出ているかもしれない。たぶん切ったろう。こめかみが脈を刻んでいる。ぼくはその場にうずくまった。時が経つにつれ、頭だけでなく、肩や肘《ひじ》や膝《ひざ》も鈍く痛み始める。しかし厭《いと》うどころか、ぼくはその痛みに身を任せた。そして体を横たえようとして、少しずつ力を抜き始めた刹那《せつな》……何かの音が遠くから聞こえてきた。  一瞬、耳鳴りかとも思ったが、余りにも規則的すぎる。何か……ベルのような……電子音だ。電話の……。  ぼくははっとして顔を上げた。確かに電話のベルだ。どこだろう? そんなに遠くからではない。  慌てて体を起こす。耳を澄ましながら立ち上がり、音のする方へ向かっていく。もう七、八メートル先にぼくのアパートが見えてくる。四回、五回……。切れるな、切れるなと念じながら、ぼくはその音を目指して駆け出す。一足ごとに左膝が強烈に痛む。近づくにつれベルの音がはっきりしてくる。ぼくのアパートだ。しかもぼくの部屋の中から、その音は響いている。  十二回、十三回……。アパートの階段を一気に駆け上がる。踊り場を回り込み、扉のノブに手をかける。やはり鳴っている。間違いなくぼくの部屋だ。  倒れるようになだれ込む。靴のまま駆け込み、ベッドの枕元《まくらもと》に転がっている電話に飛びつく。受話器を取り、耳に押し当てる。 「はい、もしもし!」  息せき切って、それだけ言う。 「あ?」  受話器の向こうで、相手が絶句する。同時にぼくは気づく。それはさっきのぼくだ。 「もしもし? もしもし?」  必死で問いかけるが、答えはない。代わりに電話がぷつりと切れる。ぼくは受話器を力一杯握りしめたまま、その場に座り込む。少しずつ、少しずつ気が遠くなってくる。全身の力が抜け、座っていられなくなる。砂のように崩れ落ちる。そしてぼくは跡形もなく消えてしまう。  ポール・ニザンを残して  僕は二十歳。けれど、それが人生の一番美しい齢だなんて、誰にも言わせやしない。  ——P・ニザン——  雨だ。  ワイパーのスイッチを入れ、それから男は何か唄うような調子で訊《き》いた。 「ポール・ニザンはどうしてる?」  女は軽く首を傾げ、不思議そうな瞳《ひとみ》を返してきた。  信号が、青に変わる。  女の横顔を目の端でとらえたまま、男はアクセルをゆっくり踏んだ。 「まだ二十歳なんだろう? 恋人」  女は一瞬、不自然なほど表情をこわばらせ、そして静かに目を伏せた。  その表情の向う側、サイド・ウィンドウの外を、大型の黒いバイクが影のように走り抜けて行く。女は少し視線を上げて、その後ろ姿をぼんやり見遣り、それからやっと微笑《ほほえ》みを取り戻して呟《つぶや》いた。 「早耳ね。嫌だわ」 「耳だけじゃないよ、目も早い」 「見たの? どこで?」 「劇場のロビー。二、三ヶ月前だったかな。君も一緒だったけど、何となく声をかけそびれた」 「ああ……ああそう。やっぱり。私もその時あなたを見かけたわよ。劇場のシートで。声はかけそびれたけど」  男は笑った。そして、灯《ひ》の落ちた劇場内で、自分の背中を遠くから見詰めている女の表情を想った。 「二枚目じゃないか」 「え? ああ。そう?」 「何しろ�美しい齢�だからなあ。でもきっと、あんまり利口な奴《やつ》じゃないな」 「どうして?」 「二十歳なんだろう? 僕がその歳だったら、とても今の君をどうこうする自信はないね。近寄りがたくって」 「今は? 今ならどう?」 「そうだな……どうかな。でもまあ、二年振りに電話が掛かってきて�明日、空港まで送って�って言われても、うろたえずにいられるくらいにはなったね」  女は鼻を鳴らすように、息だけで笑った。  雨足が、繁くなり始めた。  歩道のあちこちで傘が開かれ、そのカラフルな色どりが軽く目を奪う。アスファルトが黒くそぼ濡《ぬ》れ、街は眉《まゆ》をひそめて、足早な表情をしてみせる。 「その手は?」  包帯を巻いた女の右手を視線で指して、男は尋ねる。女は、隠すように左手を重ねて、 「いつ訊いてくるかと思ってたわ」 「ボクシングを始めたわけじゃないだろうね」 「さあ……何だと思う?」 「そうだなあ……ファッション?」  女は肩をすくめて見せ、首を横に振る。 「じゃあ切ったのか。台所に関係ある?」 「全然」 「となると……ペーパーナイフ。それともハサミ? 硝子《ガラス》のかけら? 本のページ?」 「残念でした」  女は、右手を目の前でひらひらさせ、 「新式のおまじないよ。飛行機が落ちないように、っていう」 「へえ……初耳」  女は、男の反応を確かめるように暫く間を置いてから、故意《わざ》とつまらなそうな調子で、 「昨日私が考えたの」 「なんだ」  男は大袈裟《おおげさ》に舌打ちし、道化た声色で言い返した。 「それなら、車が事故らないようにっていうおまじないにしといたほうが、よかったんじゃないの?」  瞬間、女は笑いかけ、しかし男と目を合わせると不意に押し黙った。  妙な感じだった。その日、会ってからずっと、女はそんな調子だったのだ。何かを言いあぐねている。男は、その何かを測りかねて、つい軽口を叩《たた》いてしまう自分を持て余していた。 「誰に聞いたの?」  窓外の街の流れに目を遣ったまま、気のない声で女は尋ねてきた。 「なに?」 「あの子のこと」  あの子。声には出さず、男は呟いてみる。いつのまにか、年下の男をそう呼ぶのが似合う女になってしまったわけだ。 「ああ、ポール・ニザンのこと?」 「そう」 「クラスメートさ。むかし君に夢中だった」 「あの役者くずれの? どうしてあんなひとが?」 「ひどい言われようだな。�あの子�とちょっとした知り合いらしいよ。こないだ電話があってね。色々話したけど、結局話題の中心は君のことでさ。�ポール・ニザン�ってコードネームもその時決まったわけ」 「あなたらしい発想よ……」 「なにが?」 「そのコードネーム」 「そう? でも、けっこう言えてるだろう?」 「さあ。どうかしら」  ひとしきりの会話の間も、女は伏せた目を上げようとはしなかった。そして男はそのことに、軽い苛立《いらだ》ちを感じ始めていた。  繁華街の渋滞を抜け、車は国道に入っていた。高速の高架を右手に見て、真直ぐに二車線の道が続く。言葉の消えた車内に、いつのまにか雨の匂《にお》いが沁《し》み通ってくる。  そう、いつだったか……。車と雨の匂いが引金になって、記憶が、男の内に煙り始める。まだ大学にいた頃、この同じ道を通って、女を空港まで送ったことがあった。五人乗りの車に八人も乗って、最初から最後まで笑い通しだった。女は確か二度目のニューヨーク行きで、屈託のない最高の笑顔をしていた。あの日も、こんな雨模様だったが……。  歩道橋に掛けられたサインボードを目にして、男はアクセルを緩める。ウィンカーを出し、右折車線へ入る。 「空いてたわね」  信号待ちの間に、ぽつりと女が言う。 「うん……不思議とね」  信号が変わり、クラッチを繋《つな》ぎながら男はハンドルを切る。躰《からだ》が左に振られ、上り坂になった高速への二車線が見えてくる。えぐりこむような深いカーブが続き、やがて車は三車線との合流点にさしかかる。 「高速って好きよ……」  女がまた独言のように呟く。 「人がいないから、だろう?」  その言葉の後を、男が続ける。それは、ハイウェイに入るたびに女が言う口癖だった。男の言葉を聞いて、女は少し笑う。 「記憶力、いいのね」 「君に関しては特にね」  頬《ほお》を崩して女に目を走らせるが、その横顔は、もう真顔に戻ってうつむいている。男はまた表情を持て余し、正面に向き直る。  フロント・グラスの彼方に、料金所のゲートが近付く。雨の中に濡れそぼち、ひっそりと廃墟《はいきよ》のような印象だ。男は、右足を浮かして徐々に速度を落としながら、左端のブースに車をすべり込ませる。雨音が遠のくその瞬間に、女は助手席の窓を開けて腕を差し出す。顔のない濃紺の制服が、無言でチケットを手渡すのを確かめてから、男は思いきりアクセルを踏み込んだ。素早くギアをセカンドに入れ、レッド・ゾーンまで引っぱっていく。シートに躰が押しつけられるほどの加速だ。サードからトップへ続けざまにチェンジすると、メーターはもう百四十キロを指している。男は両手でステアリングを握り直し、視界の左右に溶けていく風景に身をまかせた。 『空港・50キロ』  青地に白抜きのサインボードが、サイド・ウィンドウを掠《かす》め飛ぶ。雨粒が、強い音を立ててフロント・グラスに弾ける。 「この加速。死んでもいいね」  少年のように弾んだ声で、男は言う。 「いつ買い換えたんだ?」  訊《き》きながら、女の横顔を窺《うかが》う。薄い頬紅の下で、肌が溜息《ためいき》をついている。うつむいたまま、女は答えた。 「今年に入ってからよ」  男は走行距離に目をやってから、ただ黙って頷《うなず》いた。 「ねえ……」  女は顔を上げ、煙草を一本抜いて言葉を継ぐ。 「やっぱりこの車、預かってくれない?」 「何で?」 「何でって……あなたに乗ってもらいたいのよ」  素っ気ないその言い方を反芻《はんすう》しながら、男は、言葉の裏側を読みにかかる。 「それじゃ説明になってないよ。彼氏はいいのかい?」 「ああ……」  女は煙草に火を点《つ》け、 「いいのよ。別れたの」  乞われて時刻を教えるようにそう言った。 「ふうん……」  男は何だか笑いそうになる。  ああそう。そんなこと。割とあたりまえだったな。男はアクセルの足を緩め、エンジンの回転数を静かに落としながら、できるだけ普通の口調で言った。 「うん、それなら説明になってる。そんなことじゃないかと思ってたけど」 「優しくないわね、相変わらず」  しかし、むしろ嬉《うれ》しそうな声で女は答える。 「ちっとも変わってないんだから」 「だって他に言いようがないじゃないか。さっきも言っただろう。ポール・ニザンじゃ荷が重すぎるよ、やっぱり」 「じゃあ、誰なら軽々と担いでくれる?」 「そうだな……モームかヘミングウェイか……ジェームズ・ボンド」 「嫌ね、馬鹿みたい」  その日会ってから初めて、女は声に出して笑った。いい顔だ。昔のままだ。と、男は思う。 「で、感傷旅行ってわけだ」 「また。その言いかた……でもね」  女はそこで言葉を切り、思い出し笑いをするようにふっと口許を緩め、 「あなたにそんなふうに言って貰《もら》いたかったの。変ね。でも本当よ、だから電話したの」 「レニー・ブルース並みの扱いだね」 「そうね、そんなとこかしら……でもどうしたの、さっきから人の名前ばかり出すじゃない」 「ええと……ふたつ理由がある。ひとつは今仕事で�人名事典�の編集を手伝っていること。これが大変な作業でね。時代別にチームを組んでやってるんだけど」 「あなたは、近代?」 「二十世紀の有名人のゴシップだったら、いまのところ僕が世界一よく知ってるだろうな」 「ゴシップ?」  女は、嬉しそうに吹き出し、 「相変わらずそうやって、役に立たない知識ばっかり増やしているわけね」  言いながら、頭の脇《わき》で指を回してみせる。  男は含み笑いを漏らし、またアクセルを踏み込んで加速した。ちぎれそうな音を立てて、エンジンが泣く。あっという間に四、五台抜き去ってから左車線に寄り、ゆるやかに減速する。女はしかし眉《まゆ》ひとつ動かさない。それを見て、男はまた別の笑いを漏らす。 「もうひとつは?」  随分間を置いてから、女が尋ねる。 「え?」 「ふたつ理由があるって言ったでしょ」 「ああ、単純なことなんだけど……つまり……ドミニク・サンダに話を持って行きたかったから」 「何それ? 何故《なぜ》?」 「君が似てるって言いたかったんだ」  女は、大袈裟《おおげさ》に見開いた瞳《ひとみ》を男の横顔に向け、それから嬉しそうに声を上げて笑った。 「手が込んでるのね。どうして? 会ってすぐに言ってくれればよかったのに」 「いや、だってドミニク・サンダって、とびきり良い女じゃないか。だから……ほら……そういう褒め方って、何となくくやしいじゃない」  女は少しずつ笑い声を収めていき、やがて柔らかな溜息をついた。 「優しいのね、やっぱり」 「そうかね。でもまあドミニク・サンダに似てるってことは、しゃくだけど本当だよ。初めて会った時からそう思ってた」 「何でもっと早く言ってくれなかったの」 「いや、こんな時のためにとっておこうと思ってさ」 「馬鹿ね……」  女はまた煙草を一本抜いた。そして神経質そうに前髪を掻《か》き上げながら、火を点けた。 「ちょっと遅かったわ」  本当に残念そうな言い方だった。  雨が、また激しくなった。男はワイパーを高速に切りかえ、暫く黙り込んで濡《ぬ》れた路面を見詰めた。雨音と、エンジンのうなりと、車体が切り進む風の音。何か音楽をかけたかったが、それもはばかられた。 『空港・35キロ』のサインボードが、あっという間に風に溶ける。あと二十分。男はぼんやりと思う。 「で、今回の感傷旅行は、どちらまで?」 「言わなかった、私?」 「聞いてないよ。�空港まで送って��ああ、いいよ�それだけだったじゃないか」 「そう……パリよ、多分」 「多分ってのは?」 「アンカレッジで失踪《しつそう》するかも知れないでしょ。それに空港まで行けるかどうかだってあやしいわ」 「空港までは保証するけどさ……期間は?」 「三週間か、三年か、三十年」 「へえ。それで荷物はあれだけ?」  言いながら男は顎《あご》で後部シートを指し示した。女は少し顔色を変える。そこには、小さめのボストンがひとつしかない。 「もうちょっと大きめの荷物も抱えてるわよ」 「なるほどね……」  男は頷き、 「そいつは重いだろうな」  そう答えた。そして少し間を置いてから、笑いを含んだ声で続けた。 「でも、どうかな」 「何が?」 「ポール・ニザンが空港に先回りしてるかも知れない」 「そんな……」  女は目を伏せ、急に真顔になる。 「僕が二十歳だった頃、一番やってみたかった役回りだ。いや、もしかしたら君は、そんなことはもう見越してるんじゃないのか。だから、脇役として僕を呼んだ……」 「そんなことないわ」  女は鋭い視線を男に投げつけ、首を振った。 「そんなことありえないわ」 「そう? 賭《か》けようか。そうだな……僕のバッグにウォークマンが入ってるから、それをポール・ニザンに賭けてもいい」  言いながら、男は故意《わざ》と探るような目をしてみせる。 「本気で言ってるんじゃないでしょ」 「どうして? 本気だよ」 「馬鹿ね。慰めてくれなくても結構よ」  怒ったのだろうか、女のその言いかたには敵意のようなものが感じられた。男は一瞬言葉を見失い、行き場のなくなった視線を窓の外へ飛ばした。  車自体の巻き起こす風が、雨を真正面から運んでくる。扇型に切り取られた風景の向うに、なだらかなカーブが萎《しぼ》んでいく。同じ濃紺の、似たような車がたて続けに二台、水しぶきを上げながらみるみる小さくなる。 「ねえ……」  その二台の後ろ姿を見送りながら、女は言う。 「取り消すわ。慰めてほしいの」  弱気な内容とはうらはらに、その言葉には命令の調子がある。  男は正面のカーブに目を据えたまま、�まさか�と言いたげに首を振った。 「冗談だと思うの? そんな顔して……私の頼みかたって、今でもあなたの気に障る?」 「いや、別に気に障るわけじゃないんだ。ただ、相変わらず自信まんまんに頼むなあって……」  苦笑しながら、男は答える。  確かに、女はいつも高慢だった。しかし、それが彼女の短所だとは言い切れない。高飛車にものを言う女は、かえって魅力的に見える。特に、大人になりきってない青年にとっては……。  男は、女に強く魅かれた大学の数年間をなつかしく思い出し、そして瞬間的に、劇場で見かけたポール・ニザンの横顔を重ねてみた。 「そんなに自信まんまんでもないのよ。お願いがあるの……」  窓外に目を馳《は》せたまま女は呟《つぶや》き、黙り込みそうになる。  沈黙を嫌って、男は言葉を継ぐ。 「自信がないんなら、聞きたくないな」 「ひとつだけ。簡単なこと……」  しかし、また言いかけて止めてしまう女を訝《いぶか》って、男は、彼女の視線をちらりと追う。  田園地帯の広がる先にぽつんと小高い岡が見え、その一角をオレンジ色のパワー・ショベルが切り崩している。雨にくすんで、どうしようもなくみすぼらしい風景だ。男は前方の直線に瞳を戻し、女の言葉を待ち始める。  嫌な予感が、する。胸騒ぎと苛立《いらだ》ちが、交互に男の胸を苦くする。  女はなかなか切り出そうとしない。男は少し大袈裟に首を傾げて、女を促す。と、男の視線は、女の思いつめたような瞳と交錯した。 「私を行かせないで」  甘える調子ではない。女は乾いた、強い声でそう言った。 「行かせない? どうして?」 「暫く一緒にいたいのよ。あなたと」 「暫くっていったって……もう飛行機の時間がぎりぎりなんだろう?」 「いいのよ、そんなの……」 「よかあない」  男はようやく動揺から回復して、不機嫌を装う。 「送れって言ったり、引き止めろって言ったり……」 「ねえ、聞いて。空港までにあとひとつだけインターチェンジがあるわ」 「へえ、よく知ってるね。下調べしたみたいだ」 「茶化さないで……そこで下りてほしいの」 「それで? モーテルにでも行くのか?」 「そう……それでもいいわ。それとも、そのままどこかにドライブしてもいいし」 「どこかって……車じゃパリまでは行けないよ」  女はしかし、笑うどころか表情ひとつ変えなかった。視線を宙に這《は》わせ、何かを思いつめている。 「やめにしたいのよ」 「どうして? まさか、ポール・ニザンが待ってるかもしれないからじゃないだろう」  瞬間、女は顔色を変え、それから無言のまま首を振った。 「あの子は来ないわ」 「何故《なぜ》?」 「来られないのよ」  女は瞳《ひとみ》を上げ、斜《はす》かいに男と視線を合わせた。前髪が音もなく垂れ掛かり、眼の前に黒いカーテンを引く。掻《か》き上げもせず、そのままの姿勢で女は続ける。 「さっき私、嘘《うそ》をついたわ」  言いながら、包帯の右手を男の顔の脇《わき》に突き出し、 「これね、おまじないなんかじゃないの。包丁で切ったのよ」  女は静かに息をつぎ、唇を嘗《な》めた。 「あの子を刺した時に切ったの……」  顎が胸板につくほど、女は深くうつむいて言った。 「私、あの子を刺したのよ」  フロント・グラスの上に踊る雨粒のひとつひとつを、ワイパーの一振りが消し去り、消し去る。正面の風景が急に鮮明になって、瞳の中へ押しよせてくるような気がする。  刺した——。  言葉が、男の顔の周りを浮遊し、蜂《はち》のようにまとわりつく。何故だろう、顔の肌が変に突っ張るような感じがする。 「それで……」  しかし、思いがけず冷静な自分の声に、男は驚いた。 「どうした?」 「死んだわ」  間を置かずに女は答えた。吐き捨てるような言い方だったが、興奮した様子ではない。 「死んだのよ」  自分に言いきかせるように女は繰り返し、 「私が殺したのよ」  遠い目をする。 �嘘だろう?�困惑が、男の内に突き上げてくる。そして、手に負えない緊張と。 「いつの話?」  押し出すようにそれだけ、男は訊《き》いた。 「昨日……昨日の夜」 「電話の後?」 「そう……あなたに電話した時は、隣りにいたの。ベッドに腰掛けて、煙草吸って……」 「それが……どうして?」 「話したくないわ」  女は、きっぱりした口調で言い切った。そして、もう一度何かを尋ね出そうとする男の言葉を遮って続けた。 「でも計画したわけじゃないのよ。解るでしょう。そういうふうになってしまって……。どうしようもなかったの……」  男は路面に目を据えたまま、女に聞こえるように溜息《ためいき》をついた。何かここではないどこか遠い場所で、会話を交しているような気がした。 「どうしようもないって……」  聞こえたはずだったが、女は黙したまま答えない。焦点を虚ろに結び、つぎの言葉を探している。いや、思い出しているのかもしれない。  尋ねて、問い詰めたいことは山ほどあった。様々な疑問が、なかなか言葉の形をとろうとせずに、男の脳裏を行き交う。  死体は? 本当はまず、そう訊きたかった。しかし、�死体�というその一言がどうしても言えない。 「どこに?」  だから男はそれだけ訊いた。女は不安げな瞳を上げ、それからその主語に気付いて軽く息を呑《の》んだ。 「部屋よ……私の」 「飛び出て来たのか……」  頷《うなず》きながら、女は肩を落とした。男はその様子を横目で窺《うかが》い、続いてシフト脇に置いた煙草に目を遣った。手に取って、一本くわえる。パッケージのセロファンが耳ざわりな音を立て、男は、自分の指先が高揚しているのに気付く。ライターを押し込み、女にも一本勧める。が、顔を上げようともしない。  フロント・グラスを打つ雨音が、間遠になっていく。  男は、アクセルをほんの少し緩めた。視界の左隅、路肩の緑の中に青いサインボードが掠《かす》め飛ぶ。 『空港・15キロ』  その表示の下に、次のインターまで二キロとある。 「次で下りて」  女もそれを見たのだろうか、不意に口を開く。 「それで……とにかくどこかへ走ってよ……今夜だけでいいから。そしたら私自首するから」  強い語調だった。すがるような響きが、男の耳に絡む。  女と目を合わすことができずに、男は黒い路面の先を見据えている。  鈍い音を立てて、ライターが上がる。二人は同じように肩先を震わすが、何も言い出せない。男は、火の点《つ》いていない煙草を唇で弄《もてあそ》ぶ。女は、目を落として、包帯の右手をゆっくり握ったり開いたりしている。  やがて道の果てにインターへの出口が見え始める。分離を示す黄色いランプが、男の瞳の中に点滅する。いつのまにか女は、男の横顔を食い入るように見詰めている。  車は、出口寄りの左車線を走っている。 「ねえ……」  女は何か言おうとするが、その後は言葉にならない。  ファインダーから覗《のぞ》く景色のように、男の視線は出口に吸い寄せられる。そしてその視界に、女の言葉やしぐさ、男自身の思いなどが散り散りになってオーバーラップする。  後続の黒いクーペが右から追い越しをかけて、あっというまにインターへ消えていく。  その後ろ姿を追いながら、男はしかしハンドルを切ろうとはしなかった。  二叉に分かれた下り坂が、サイド・ウィンドウを横っ飛ぶ。分離ランプが、黄色い筋を引いて消え去る。そして女は男の横顔から、ふっと視線を外した。  男は女の反応を肌で感じ取りながら、もう一度ライターを押し込み、火を待つ間の数秒をじれったく見送った。  あと十三キロ。 「聞かなかったことにするよ」  考えよりも先に、口をついて出た言葉だった。不自然な切り出しかただったが、言い直す余裕もなく男は言葉を継いだ。 「だってそれが本当なら……僕は、このまま君を……逃がしたい。現にこうして、今のところ上手《うま》く逃げてるわけなんだし」  ライターを引き抜き、煙草に火を点けると、男は深く煙を吸い込んだ。 「それなのにわざわざ、つなぎとめる方に手を貸すなんてさ……。いや、結果的にはどうか分からないけど。逃げた方がいいのか、どうか……」  矢継早に口をついて出てくる言葉が、脈絡を失いかけているのに気付いて、男は口を閉ざした。赤面しそうになる。どうしても考えがまとまらないのだ。焦燥を隠すために、男は小刻みに煙草を口へ運んだ。車内に、煙が満ち始める。しかし二人とも窓を開けようとはしない。  やがて短くなった煙草を、男は灰皿へ押しつける。強く捻《ひね》って火先をねじ切り、それから溜息をつく。 �どうするんだ?�  誰にともなく、男は思う。  女はうつむいたまま、瞳を自分の右手へ向けている。髪が垂れ掛かって表情が読めない。 「とにかく……」  男は、できるかぎり無機質な声を作ろうとする。 「何も知らずに送ったことにするよ。飛行機に乗るか乗らないかは、君の判断だ。僕は……」 「随分お喋《しやべ》りね……」  女の落ち着いた声が割って入る。 「いいのよ、そんなふうに言ってくれなくても」  まだ車内に立ち籠《こ》めたままの煙の向うで、女は言う。 「良くわかったわ」  声の調子が、何だかそぐわない。男は不審げな表情を女に向けた。伏せていた顔を上げ、女は小さな笑みを返してくる。 「どういう……意味?」  口籠《くちごも》りながら、男は尋ねる。 「どういうって……」  言いながら女は、右手の包帯をゆっくり解き始める。それに合わせて口許が綻《ほころ》んでいく。 「どうするかなって……思って」  包帯の下から、痩《や》せた、小さな掌《てのひら》が現れる。女は自分の膝《ひざ》の上で、指先をぴんと広げて見せた。石鹸《せつけん》の香りそうな、白い指だ。 「嘘《うそ》なの」 「嘘って……?」  女は芝居がかって、肩をすくめてみせる。 「ほら、切ってなんかいないでしょう。包丁なんてここ三年くらい持ったことはないのよ、本当は」  女は楽しそうに右手で膝を打ち、 「だからポール・ニザンも、今頃は雨上がりのキャンパスで口笛を吹いてるはずなの、残念ながら」  屈託のない声でそう言い放った。  男は、しかし硬直したままの表情を崩せずに、女の横顔を窺い見る。 「もういいわよ、そんな顔」  目を合わせると、女はそう言って笑った。 「本当か?」  自分でも嫌になるような、疑い深い声で男は尋ねる。 「本当よ」 「どっちが?」 「嘘だってことがよ」  言いながら煙草を取ろうとして伸ばしてきた女の手を捕え、 「おい……」  乱暴に握りしめる。男の手にすっぽり入ってしまうほど、小さな右手だ。 「何て奴《やつ》だ。こいつにやられたぞ……ずいぶん用意周到じゃないか、ええ?」 「信じた?」  女は男に手首を捕えられたまま、子供っぽく笑った。 「信じたかだって? 過激な冗談だよ、まったく。いや、こういうのって、冗談の部類に属さないよ。大体、どこまでが嘘だったんだ? ポール・ニザンと別れたっていうのも嘘か?」  女は男の手からするりと逃れて、髪を掻《か》き上げる。 「それはノンフィクションよ」 「チケットを取ったのは?」 「それも本当。ただし、感傷旅行のつもりなんてないけど」  男は悪意のない舌打ちを漏らし、それから腰をずらしてシートに深く座り直した。知らぬ間に、随分前のめりの姿勢をとっていたらしい。背筋に、緊張の名残がぼんやりと感じられる。 「この包帯さえなかったらなあ、信じやしなかったけど」  女の膝の上でくしゃくしゃになった包帯を横目で見ながら、男は呟《つぶや》く。 「ちょっと凝りすぎじゃないか? すごく不毛な冗談なのに」 「そうでもなかったわよ」 「どうして? 何が? だれかが膝を叩《たた》いて喜んだか?」 「そんなことじゃないけど……少なくとも私の目的は果たせたってこと」 「どういう目的さ? パリで女優にでもなるつもりかよ」  女は柔らかな笑い声を立てた。そして包帯を両手で巻き取りながら、 「あなたを試してみたかったの」  そう言った。 「あなたを試してみたかったの」  女の言葉をそっくり真似て、男は頬《ほお》を歪《ゆが》めてみせる。 「何だそりゃ。ばかばかしい。試して、何が解るっていうんだ」 「けっこう色々解ったわよ」 「何が? 例えば?」 「例えば……あなたは犯罪者の素質があるわよ。ちょっと気が弱いから、自分じゃ手を汚せないけど。でも、助けてはくれそう。それから……」  女はそこで言葉を切り、包帯を巻き取る手を止めて男の横顔を見詰めた。  短いが、深い沈黙があった。風と、エンジンの音が、また二人の間に膨れ上がる。 「やっぱり私とは友達でいたいんだってことも……」  女は煙草をくわえ、ワイパー止めたら、と素気なく言った。  確かにもうフロント・グラスは濡《ぬ》れていなかった。止んだのか、と男は独言をもらし、ワイパーのスイッチを切った。窓を少し開け、風を入れる。  雨上がりの、妙に鮮明な風景がガラスの向うで黙っている。  あと五キロ。男は、トリップ・メーターに目を走らせる。やけに長かったじゃないか。 「目の前に出口があるのに、わざと自分で迷路を作ったみたいだな」  女は答えずに、また包帯を巻き始める。 「そんなこと、もうとっくに解ってると思ってたよ」 「いいのよ、別に」  巻き終えた包帯のロールを両手で弄びながら、女は軽く笑う。 「おかげで、空港まで退屈しないですんだわ」 「退屈?」  思わず男は声を荒げる。続けて声を静め、 「まったく後味の良い退屈しのぎで、実に楽しかったよ。さっきのインターで下りてりゃ、もっと楽しかったんだけど」 「あなたは下りはしないわよ」  女は自信ありげに言った。 「だからあなたを選んだんじゃない」 「ひとをチェスの駒《こま》みたいに……」 「ごめんなさい……怒った?」 「怒っちゃいないさ。実は僕も、昨日ガールフレンドをひとり殺しちゃったもんでね。君が朝まで一緒にいてくれるなら、自首してもいいって、今考えてたんだ」  女は煙草にむせて笑い、 「じゃあ、あなたに飛行機のチケットをあげなくちゃ」 「ああ、そう願いたいね」  不機嫌を装ったまま、男は呟き、 「しかし、まったく……」  女の笑顔を横目で窺《うかが》いながら、つい笑ってしまいそうになる。 「何て女だ」 「どうして?」  嬉《うれ》しそうに訊《き》き返してくる女を、大袈裟《おおげさ》な溜息《ためいき》で制して、 「もういいよ……」  男はそう呟く。 「そんなことを説明してたら、飛行機が離陸しそうだ」  やがて道の上に、白文字が見え始める。 『本線』、そして『空港』。  男は左のウィンカーを出し、サイド・ミラーに目を遣る。素早く加速して左車線に入ると、分離ランプを越え、ゆるやかなカーブに沿って減速していく。 「着いちゃったわね」  料金所のゲートを目にして、つまらなそうに女が呟く。  それには答えず、男は青ランプのブースに車を入れる。右側の助手席から女が金とチケットを差し出す。快く冷えた空気が、二人の頬を軽く撲《う》つ。 「お気をつけて」  料金所の中から、人の好さそうな声がぽつりと響く。 「ありがとう」  女は窓をぴったり閉め、それきり口を利かなくなった。  道は、車線の数を徐々に減らしながら、きつく彎曲《わんきよく》して空港内へ入り込んでいく。行き交う車の数が急に増え始め、男はアクセルを緩めた。長く尾を引いて響く轟音《ごうおん》に顔を上げると、ジェット機がフロント・グラスの上隅を離陸していく。  空港は、遊園地に似ている。来るたびに、男はそう思う。喧騒《けんそう》と、あわただしさと、そして空しい匂《にお》いがそこにはある。 「まだ大学にいた頃……」  離陸したジェット機の腹を仰ぎながら、脈絡もなく女は話し始める。 「やっぱり送ってもらったことがあったわね」 「ああ。総勢八人でね」 「そうそう。車の中が脱水機みたいだった……何だかなつかしいわ。ねえ、あのニューヨーク行きの時、あなたに何を買ってきたか覚えてる?」 「�クラップ氏最後のテープ�のパンフレット」 「そうそう」 「忘れるわけないよ。あれのおかげで卒論書けたんだから」 「そうなの? 退屈な芝居だったわよ、死にたくなるくらい。……でも、そうね。今日は私、クラップ氏みたいな気分よ」 「最後のテープを残すかい」 「うん……そう……でも、観客が少ないから、止めとくわ」  彎曲した下り坂の先に、放射状に建てられた空港ビルが見え始める。 「時間は?」  男が訊くと、女はだるそうに時計に目を遣り、 「ジャストよ。あなた、タイム・キーパーになれるわ」 「レーサーと言ってほしいね。コーヒーは?」 「無理。残念だけど」 「そう……」  男は頷《うなず》き、 「やっとまともな世間話ができそうになったのにな……あともう少し。コーヒー一杯飲む間だけ一緒にいられたら、もっと、こう……」  言い澱《よど》む男の横顔から視線を外して、女は曖昧《あいまい》に微笑《ほほえ》み、自分の煙草をポーチに収《しま》い始める。それからサングラスを掛け、男の方に向き直る。 「やっと口説いてくれたわね」 「いや、そういうんじゃなくて……」 「どういうんでもいいわ。ありがとう、嬉しいわ」  車は、北ウィングのロビー前にさしかかっていた。正面のロータリーを回り込み、モーター・プールへの道を選《と》ろうとすると、女の手がウィンカーを戻した。 「いいの、入口の脇《わき》につけて」  男は黙ってそれに従った。女はバック・シートのボストンを取り、膝《ひざ》に載せた。そして、何か困ったような笑みを漏らした。 「迷惑かけちゃうわね」  車が停まると、女はぼそっと呟いた。 「ああ、車のこと? 別に迷惑じゃないよ。ちゃんと君の駐車場に戻しとく」 「ううん、そうじゃなくて」  言いながら女はドアを開ける。外に出、車の前を回って運転席の窓に来る。  サングラスの奥の瞳《ひとみ》が、まだ何か言いたそうに緩んでいる。 「じゃあ、預かろうか。いつ帰って来る?」 「多分二週間。でも解らないわ。本当に解らないの」 「ああ、別にいいよ」 「ありがとう……じゃあ」  軽く右手を上げて立ち去ろうとする女の背に、男はもういちど声を掛けた。 「待った。忘れ物だ」  女は肩を震わせ、振り返る。男は自分のバッグからウォークマンを取り出し、女に投げ渡す。 「来てなかったもんな、ポール・ニザン。賭《かけ》は僕の負けだ」  女は窓に寄り、男の顔を長い間見詰めた。そしてウォークマンを男の手に返し、 「私の負けよ。来てるの」  男は、女のサングラスに映る自分の歪んだ顔を見詰めた。女は腕時計に目を遣り、じゃあと軽く手を振った。小走りに歩き出そうとし、また思い直したように振り返り、 「やっぱり帰って来られないわ、私。お別れよ。嘘《うそ》ばっかりついてごめんなさい」  女は、男の顔をもう一度切なげに見詰めてから、こう続けた。 「私の乗った飛行機が離陸したら、トランクを開けて」  そして女は、足早にロビーの人込みに紛れていった。ポール・ニザンを残して。  空白を埋めよ  その夢の輪郭は乾いている。  ある程度硬く、かりかりした殻に包まれていて、中身が分からない。まるで中華料理の春巻のようだ。この殻を食い破ることさえできれば、中にある何かがどろりと流れ出してくるように思えるのだが……。  私は目覚めた。  けれどもしばらくの間、目覚めたのかどうか定かではなかった。瞼《まぶた》を開こうが閉じようが、同じ闇《やみ》に包まれていたからだ。私は何度かまばたきを繰り返し、視力を失ってしまったのだと勘違いして、激しい恐慌に陥った。  あわてて上体を起こす。  同時に体の節々が鋭く痛んだ。特に頭がひどい。頭痛ではなく、後頭部に外傷の痛みがある。痛みがあるということは、つまり既に夢から脱しているということだ。  ——落ち着け。  自分に言いきかせる。五感のすべてを研ぎ澄まして、全身の神経をウニの棘《とげ》のように外界へ向ける。  湿っぽい黴《かび》の臭《にお》いが、私を包み込んでいる。古い家屋の中に私はいるらしい。尻《しり》の下に湿ったクッションの感触がある。ソファだろうか。黴臭さは、主にこのクッションから漂っているようだ。  家内に物音はなく、私の息遣いだけが聞こえる。ただ家の外には何か……あれは潮騒《しおさい》かもしれない。森が風に鳴っているようにも聞こえる。いずれにしても自然のものだ。都会からは遠く隔たった気配がある。  上体を起こしたまま、ゆっくり首を巡らしてみる。後頭部がきりきり痛むが、我慢して目を凝らす。左手に窓があって、そこから眠たげな光が差し込んでいる。おそらく月明かりだろう。家内の様子を隈《くま》なく知るには、あまりにも弱々しい光だ。  ——どこだここは?  月明かりを頼りに、家内の左半分の様子を窺《うかが》う。ぼんやりと輪郭しか分からないが、かなり広いスペースにテーブルが散乱している。テーブルの上に乗っているのは……椅子《いす》だろうか? 逆さにして重ねてある。動くものの気配はまったくない。  私は自分の寝ている位置を、もう一度確かめた。身じろぎをして体の位置をずらすと、尻の下でスプリングが厭《いや》な音を立てた。やはりソファらしい。部屋全体の造りは、街道沿いにあるドライブインを想わせる。あるいは海の家か。黴臭さから想像すると、かなり朽ちているに違いないが。  何故《なぜ》こんなところに寝ているのか、その理由が分からない。何がどうしたというのだろう?  私はそっと右手を動かし、痛む後頭部を撫《な》でた。粘つくものが掌《てのひら》に感じられる。目の前に翳《かざ》してみるが、何も見えない。しかしこの粘つきは血糊《ちのり》だろう。既に止まっている様子だが、かなり出血したらしい。ふらつくのはそのせいだろうか。  いつ頭に怪我をしたのか、反芻《はんすう》してみたが上手くいかない。記憶がぼんやりと霞《かす》んでいるのだ。傷を負った際に、頭の中の螺子《ねじ》が緩んでしまったのだろうか。分からない。さっぱり分からない。  私は息をひそめたまま、他に傷を負っていないか体を点検した。無理な姿勢で寝ていたせいか、関節が錆《さ》びついたように痛む。しかし後頭部を除いては、出血している様子はない。手触りから想像すると、私は半袖《はんそで》のポロシャツに綿の長ズボンを穿《は》いているらしい。足先に触れると、革の感触がある。山歩きに適したゴム底の革靴だ。紐《ひも》もしっかり結んである。  続いてズボンのポケットを探る。  右側には数枚の小銭と、鍵《かぎ》が入っている。鍵は二つだ。取り出すと同時に、一つが部屋の鍵、もう一つは車の鍵であることが分かる。私は少しほっとした。中野にあるマンションの部屋の様子も、その地下倉庫に停めてあるアウディの姿も、はっきり思い出せる。完全に記憶を失ったわけではないらしい。  私は二つの鍵をいじりながら、自分の名前や生年月日、両親のことや出身校のことを思い出してみた。大丈夫。ちゃんと思い出すことができる。  左側のポケットには、煙草とライターが入っていた。ありがたい。私はライターを取り出し、目の前で擦《す》ってみる。顔を顰《しか》めるほど目映《まばゆ》い火花が、闇の中に弾ける。しかし火はつかなかった。あわててもう一度擦ると、今度は炎が上がった。眩《まぶ》しくて、反射的に顔を背ける。その視線の先に、古新聞の束があった。ソファの隅だ。  我ながら焦れったいほど緩慢な動きで、新聞紙を手に取る。と、またもや指先に粘つく感触があった。新聞束の一番上が、血で汚れていたのだ。はっとして手を引っ込めるが、すぐにそれが自分の血であることに気づく。おそらくこの古新聞の束を枕《まくら》に、私は寝転がっていたのだろう。  もう一度手を伸ばして引き寄せる際に、ふと紙面を見ると、そこには横文字が並んでいた。英字新聞だ。私は首をかしげた。この古ぼけた家屋には、あまりにも似つかわしくない新聞ではないか。  ライターを持つ指先が、堪えがたく熱くなってきた。一旦《いつたん》消して、ライターが冷えるのを待ち、その間に新聞紙をねじって棒状にする。やや湿っているが、多分燃えるだろう。同じ形状のものを何本か作り、それから改めてライターを擦る。  炎はすぐに燃え移った。  同時に家内の様々な物の影が壁に沿って起き上がり、意思を持つ動物のように揺らめき始めた。私は一瞬たじろいだ後、燃えさかる新聞紙を巡らせて、家内の様子をぐるりと確かめた。  部屋全体は二十畳ほどの広さがある。ソファの隅に古新聞の束と、その足元に黒いポリ袋。床には雑誌が何冊か散らばっている。漆喰《しつくい》が剥《は》がれかけた壁には、十二年前のカレンダーが掛けてある。数字だけのシンプルなカレンダーだ。  部屋の中央には、思った通りパイプ椅子を逆さにして重ねたテーブルが散乱していた。床は板張りで、あちこち踏み抜いた穴が開いている。  私は炎を手にゆっくり立ち上がり、散乱するテーブルの間を用心深く歩いた。床に落ちている雑誌も、やはり日本のものではない。窓とは反対側、つまり右手に厨房《ちゆうぼう》らしきスペースが見える。入ってみると、案の定流しがあった。鍋《なべ》やフライパンが虚しく転がっている。蛇口を目にすると同時に喉《のど》の渇きを覚えたので、ひねってみたが水は一滴も出なかった。その位置で壁を見上げると、ブレーカーが目につく。一応スイッチを入れてみたものの、電気は通じていないらしかった。  私は思いついてフライパンを取り上げ、部屋の中央へ引き返した。テーブルの上の椅子を退け、フライパンを置いて、その中へ燃えさかる新聞紙を落とす。それからソファへ戻って古新聞と古雑誌を抱え上げ、火のそばへ運んできた。できるだけ乾いているページを選んで千切り、少しずつ炎の中へ投げ入れる。  煙さえ我慢すれば、これでしばらくは明かりの心配はないだろう。  私はあらためて周囲を見回した。家自体の造りは、簡素なプレハブであるらしい。穿《うが》たれた窓は二つ。入口は一つ。扉は閉まっている。  炎の明かりのもとで眺めると、私の衣服はひどく汚れていた。ズボンもポロシャツも泥で真っ黒だ。  何があったのだろう?  古新聞や床に散らばっていた雑誌から想像すると、どうやらここは日本ではないようだ。水道の蛇口やブレーカーの形状も、見慣れたものとはどこかしら違っていた。海外に私は来ているのだろうか。そして何らかの理由で頭に怪我を負い、この廃屋のソファに運び込まれたのか。あるいは自力でここまで来たのか。  揺らめく炎を見つめながら、私は記憶の糸を手繰り、思いを巡らせた。  私は現在三十五歳で、表参道に小さな店を持っている。経営は順調だ。扱うのはアンティークが中心だが、ここのところ東南アジアの小物が好評を得ていて、しかも唖然《あぜん》とするほど安価に仕入れることができるので、頻繁にバリ島やタイを訪れている。  妻子はなく、気儘《きまま》な生活を送っているが、もちろん恋人は何人かいる。正確には三人、いや二人だ。一人はもう随分以前に別れた。澄枝という女だ。ただこの女は異様なほど私に執着していて、手を焼いている。いくら遠ざけようとしても、つきまとってくる。そのやり口は尋常ではない……。  澄枝のことを思い出すと、私の胸の内にどす黒い悪意が溢《あふ》れた。同時に、薄暗い穴の底に横たわっている彼女の姿が浮かぶ。気絶している様子だ。私はスコップを手に、穴の脇《わき》に立っている。  ——そんなはずはない。  私は慌てて否定し、頭を振ってその場面を掻《か》き消した。  確かに私は澄枝に対して殺意に近い感情を抱いたこともあったが、それを実行に移すなんて考えられない。私はごく冷静な人間であると自任している。感情にかられて大声を出すことも滅多にないのだ。  ——しかしあの女は……。  記憶の歯車が、軋《きし》みながら少しずつ回転し始めた。  澄枝はひどい女だった。  もともとは私の店でアルバイトをしていた女だ。短大を出てぶらぶらしている女の子がいるから使ってくれないかと、知り合いの知り合いから頼まれて、気楽に雇った。それなりに整った顔立ちをしているのに、表情がいつも暗く、無口なので、他の従業員からは疎まれていたようだ。雇い主の私としても決して満足のいくアルバイターとは言いかねた。だから二週間ほど働かせた後に、理由をつけて辞めてもらうことにしたのだ。澄枝は二週間分のアルバイト料を受け取ると、うらめしそうな顔で私を見つめ、不意に泣き出した。私は、ひどく困惑した。人目もあったので彼女を店から連れ出し、お別れ会と称して青山のバーで酒を飲んだ。しかし後になって考えると、この時の軽い同情心がいけなかったのだ。  その夜、私は澄枝を中野のマンションに連れ帰り、一緒にベッドへ入った。彼女の肉体はなかなか魅力的だった。繋《つな》がっている間だけ、私は彼女に惹《ひ》かれた。  だから私は彼女のことをかなり粗雑に扱った。それは認める。自分の都合のいい時にだけ彼女を呼び出して、好きなように玩《もてあそ》び、飽きてしまうと明け方でも部屋の外へ放り出したりした。普通、そんな扱いを受ければ、女は二度と近寄ってこないものだ。ところが澄枝は何度でも私の誘いに応じた。私にとっては便利な女だった。  半年ほど、そんな関係が続いた。厄介だったのはその後だ。  澄枝はいつのまにか私の部屋の鍵をコピーして、勝手に出入りをするようになった。私の留守に入り込んで、部屋を掃除したり家具の位置を変えたりし始めたのだ。もちろん私は怒ったが、彼女は言い訳をするでもなく、黙り込んで暗い笑顔を浮かべるばかりだった。鍵はすぐに取り返したが、予《あらかじ》め複数コピーしておいたらしく、何度か同じことが続いた。時期を同じくして、私の別の恋人たちのもとへ奇妙な無言電話が相次ぐようになった。証拠はないが、澄枝の仕業《しわざ》に決まっている。私は苛立《いらだ》ち、ある日扉の鍵自体を替えて、もう二度と近寄らないでくれと彼女に電話で告げた。  この電話の後、澄枝の私に対する厭《いや》がらせは少しずつ異常をきたしていった。まず私の部屋と、店にかかってくる無言電話だ。部屋の方は留守番電話に切り換えてベルも切っておいたのだが、店の電話はそうするわけにもいかない。多い日は一時間に三十回も無言電話があった。ファックスに延々と白紙が送られてくる時もある。一週間もしない内に私は音を上げ、電話番号を変える手続きをした。ところが新しい番号に変えた翌日から、また同じ無言電話だ。二週間とはいえ私の店でアルバイトをしていたわけだから、彼女は重要な取引先の名前くらいは知っている。だからそこへ連絡をして、新しい番号を聞いたのだろう。これではいくら番号を変えてもきりがない。  もちろん私は警察にも相談をした。しかしながら無言電話くらいで本腰を入れて捜査に乗り出すような刑事など、どこにもいないのだ。まして容疑者が二十歳そこそこの娘だと聞くと、逆に私の非を責めるようなことを言い出す始末だ。 「火遊びの後始末は自分でしなくちゃいけませんよ」  息の臭い中年の刑事にそう言われて、私は返す言葉もなかった。  そんなふうに失望した私を狙《ねら》いすますようにして、ある晩澄枝は訪ねてきた。私は必死で自分を律しながら、お茶を淹《い》れた。外は雨が降っていて、彼女は傘を持っていなかった。だからタオルを貸してやり、できるだけ優しく「風邪をひくぞ」と声をかけてやった。澄枝は髪を拭《ふ》きながら、しばらく泣いた。そして不意に顔を上げると、真剣な口調でこんなことを言った。 「子供ができました。結婚して下さい」  私は唖然とした。 「してくれなきゃ、私死にます」  澄枝は続けて、そう言った。私は冷たい目で彼女を見据えたまま、 「そうしてくれ。無言電話もなくなるわけだ。助かるよ」  低い声で答えた。半ば反射的だったが、本心だった。澄枝はそれを聞くと生気のない、暗い目をして立ち上がり、部屋を出ていこうとした。私はその背中に向かって、言い訳がましくこう言った。 「なあ、もう俺《おれ》には構わないでくれよ。頼むから。お前はまだ若いんだし、俺なんかにつきまとわなくたって、いくらでも男なんかいるだろう? もういいじゃないか。勘弁してくれよ」  彼女は振り向かなかった。私の言葉を聞き流し、雨の中へ出ていった。  そして翌日の深夜、表参道の店でボヤ騒ぎがあった。ビル自体にかなり優秀な警報装置が取りつけてあったので、店のごく一部と家具数点を焼失しただけで消し止めたが、私はしばらく口もきけないほどのショックに打ちのめされた。台所のガスレンジに薬缶《やかん》をかけたままだったことが出火原因だと消防署の人間は説明したが、従業員の誰もがそんな覚えはないと弁解した。彼らはおそらく嘘《うそ》をついていないだろう。澄枝だ。あいつが店の鍵《かぎ》もコピーしておいたのだ。そして夜中に忍び込み、ガスレンジに薬缶を乗せてスイッチをひねったのだ。台所の片隅には、商品を梱包《こんぽう》するためのクッション材や包装紙が山ほど積んである。これをガスレンジのそばへ引き寄せておけば、簡単に火事になる。  私は店へ行って、黒こげになった薬缶や家具やフローリングの床を目の当たりにし、澄枝の悪意を肌で感じた。異常としか言いようがない。こんなことをして一体何になると言うのだ? 私は叫び出したい気持を堪えた。そしてその代わりに、澄枝に対する殺意を胸の奥底に抱いた……。  ——馬鹿な。  私は炎から目を逸らし、こめかみを押さえた。ひどい頭痛がする。  殺意を抱くことと、それを実行に移すこととの間には大きな隔たりがある。そう簡単に一線を越えられるものではない。たかが頭のおかしな小娘一人のために、一生を棒に振る覚悟でそんなことをするなんて、私らしくないことだ。きっと何か他にいい手を考えたはずなのだ。  ところが思い出そうとしても、ボヤ騒ぎがあった時点から後の記憶が甦《よみがえ》ってこない。あれは確か七月の末、三十日のことだ。定休日の翌日だから、水曜日の深夜に騒ぎがあって、木曜日の早朝に店へ行った。そこで消防署の人間から話を聞いて、その後私は……その後私は……。  思い出せない。  今日が何月何日なのか分かればいいのだが、生憎《あいにく》私は腕時計をする習慣がない。まさか何年も経っているというようなことはないだろう? しかしそれも確証はない。  目の前の炎が消えかけている。私は古新聞を千切りかけ、手を止めた。いつまでもここに留まっているのは、得策とは言えない。表へ出るべきだ。そしてここがどこなのか、今は何月何日なのか、私は何故《なぜ》ここにいるのか、手掛かりを探さなくては。  私は古新聞を足元へ落とし、扉に向かった。一足ごとに、後頭部の傷が疼《うず》く。巨人のように壁の表面を支配していた私の影が、火から離れるにつれて少しずつ小さくなっていく。ノブに手をかけて、静かに回す。鍵はかかっていなかった。扉は厭な音を立てて軋《きし》みながら、外へ向かって開いた。  表は、予想以上に明るかった。夜空には思わず見惚《みと》れてしまうほどの星が瞬《またた》き、くりぬかれたような満月が青白い光を放っている。家屋の前には、未舗装だが車が行き違えるほどの道が伸びていた。道の両脇《りようわき》にはヤシの樹が密生して、私をじっと見下ろしている。右手の方角から、遠い潮騒《しおさい》……。  やはり日本の風景ではない。  フィリピン、グアム、サイパン、フィジー、タヒチ……今までに訪れた南国の風景を、目の前のそれに重ね合わせてみる。確証はないが、私はこの風景に見覚えがあった。いつ訪れた土地だろう?  付近に人影はまったくない。もちろん人家も見当たらない。潮騒と、私自身の息遣いだけが聞こえる。  私は途方に暮れ、嘗《な》めるように周囲を見回した。と、道を隔てた向こう側の茂みに、何か白い布のようなものが落ちている。洋服らしい。  覚束《おぼつか》ない足取りで近づき、拾い上げてみる。麻のジャケットだった。見覚えがある。これはいつだったか……まだ付き合い出したばかりの頃、澄枝が贈ってくれたものだ。大袈裟《おおげさ》なラッピングを欧米風に引き裂いて、中身を出した記憶がある。あまり私の趣味ではなかったから、一度か二度しか着ていない。これを着て、私はこの国へ来たのか?  探ってみると内ポケットに手帳が入っていた。私のスケジュール帳だ。表紙には今年の年度が刻印してある。ジャケットを小脇に抱え、慌ててページを捲《めく》る。月明かりだけではとても細かい字までは読み取れないので、手元でライターを擦《す》る。書き込みがしてある一番最後のページだ。  八月二十三日から三十日にかけて、赤いボールペンで斜めに線が引いてある。そして私自身の字で「バリ行」と書いてあった。その後には何の書き込みもしていない。  ——バリ島……?  そんな予定があったろうかと、記憶の糸を手繰ってみる。バリ島なら小物の買いつけで二度ほど訪れたことがある。昨年の四月と十月だ。しかし八月の後半は毎年休みを取る習慣だから、仕事で訪れているとは考えにくい。プライベートなバカンスだろうか? だとしたら一体誰と?  鋭く頭が痛んだ。  同時に、また澄枝の姿が脳裏に浮かんだ。穴の底にぐったりと横たわっている。穴の深さは一メートル半ほどだろうか。私は穴の縁に立って、澄枝を見下ろしている。夜だ。月明かりが、彼女の姿をぼんやりと青白く照らし出している。潮騒と、ヤシの葉が風になびく音。まるで驟雨《しゆうう》のようだ。心の中までざわざわする。叫び出したいほどの不安にかられ、私はその場から逃げ出す。茂みの中で何度か転倒しながらも、闇雲《やみくも》に駆ける。後頭部が脈を打っている……。  これは現実なのだろうか。それとも澄枝に対する私の憎しみが生み出した幻想なのだろうか。あるいはドラッグ? それも考えられる。普段私は海外へ行っても、滅多にそんなことはしないのだが、昨年バリ島を訪れた時は好奇心からマジックマッシュルームという茸《きのこ》を試した。天井が回って気分が悪くなるだけだったが、聞いた話によると、鮮やかな幻覚が見えることもあるらしい。ひょっとしたら私はそれを食し、澄枝を殺す幻覚を見たのかもしれない。  私はジャケットとスケジュール帳を手にしたまま、茫然《ぼうぜん》と立ち尽くし、思いを巡らせた。いずれにしてもここに突っ立っているだけでは、何の変化も訪れない。歩き出すか、あるいは廃屋へ戻って朝まで身体を休めるか、どちらかだ。  私は歩き出した。  当てはなかったが、とりあえず潮騒が聞こえてくる方角に向かう。もしここがバリ島なのだとしたら、海岸線に沿って歩いていけば、いずれは民家なりホテルなりを発見することができるはずだ。できればホテルがありがたい。事情を話して、まず傷の手当てをしてもらおう。ここがどこなのか、何月何日なのか確かめることも忘れてはならない。とりあえず一晩ぐっすり眠って、明日になったら様子を見て対策を考えよう。記憶が戻らないようなら、日本大使館へ連絡を取って助けてもらえばいい。記憶が戻ったら、逗留先《とうりゆうさき》へ帰るだけのことだ。  ——しかし……もしあの幻覚が現実のものだとしたら。  私は足を止めた。澄枝を撲殺して穴の底へ落とし、埋める途中で逃げ出してきたのだとしたら……。これは面倒なことになる。あの状態では、いずれ誰かに発見されてしまうだろう。身元もすぐに割れて、同日に出国している私が一番に疑われてしまう。記憶がまったくないのだと言い張っても、通用しないだろう。私は破滅する。  ——どうすればいい?  誰かに出会う前に、確かめる必要がある。私はどういう計画を立てたのだろう。どんな手順で澄枝を殺し、どんなふうに後始末をつけるつもりだったのだろう。  バカンスと称して澄枝を誘い、バリ島を訪れる。滞在は一週間だから、到着してから準備をする時間は充分にある。あの穴は前もって掘っておいたものだろうか。スコップはどこで手に入れたのだろう? 地元の金物屋で買ったりすれば、証拠が残る。日本から持っていったとも考えにくいから、おそらくホテルの庭師か何かが使っているものを盗んだのだろう。そしてある晩、人目に立たない場所へ澄枝を誘い出す。ホテルからは大分離れた場所……ということは、車が必要だ。タクシーを使うのも避けたいので、予めレンタカーを借りているはずだ。澄枝にはたっぷり酒を飲ましてある。それともマジックマッシュルームか? とにかく酩酊《めいてい》させておけば、色々と仕事がやりやすい。人気《ひとけ》のない海岸近くで車を降り、澄枝の手を引いて茂みの奥へ入っていく。そして一思いに手を下す。方法は絞殺でも撲殺でも刺殺でもいい。とにかく息の根を止めるのだ。それから身元が分からなくなるように服を剥《は》ぎ、穴の底へ落とす。土をかけて埋め、表面をカモフラージュする。後は車に乗ってホテルへ戻るだけだ。途中、どこかで彼女の服を始末する必要がある。例えばさっきの廃屋のような場所で、燃やしてしまえばいい。翌日、私はビーチへ出て、しばらく日光浴を楽しむ。満潮で波が高くなってくるのを見届けてから、ビーチパトロールのところへ行って騒ぐのだ。 「連れの女性が海へ入ったまま、もう一時間も戻ってこない」  青ざめた顔で、そう訴えればいい。それですべてが終わる。死体さえ見つからなければ私が疑われることはない。死体さえ見つからなければ……。  私は再び歩き出し、少しずつ小走りになっていく。今、脳裏をよぎった殺人の計画は、私の想像の中だけのものなのか。それとも現実の記憶なのか。現実だとしたら、私はその計画を半ばで中断し、拙《つたな》い形で放り出してしまったことになる。穴の底に横たわった澄枝の姿……衣服も着せたままだ。すぐに身元が分かってしまう。  私は走り出した。  当てはなかったが、あの現場からそれほど離れてはいないはずだという気がした。どこか、この近くに違いないのだ。海岸の付近で、左手に茂みがあって……。  前方に車が停まっていた。月明かりがその白いボディを、薄青に染めながら照らしている。誰かが乗っている気配はない。間違いない。私が借りた車だ。風景にもぼんやりと見覚えがある。  私は車に近づいて中を確かめた後、左手の深い茂みの中へと分け入った。息が荒くなってくる。また後頭部が痛み始めた。まっすぐだ。そのまままっすぐに進めばいい。茂みにはなぎ倒した跡がある。もっと奥だ。森の中だ。  やがて私は見覚えのある場所に出た。  森が途切れ、腰くらいの高さの草が生い繁った原っぱが続いている。私は肩で息をしながら、周囲を見渡した。右手前方、五メートルほどのところに穴が開いている。あそこだ。あの穴の中だ。  私は静かに、できるだけ足音を立てないようにして近づいた。月は真上にある。穴の底まで見下ろせるだろう。息をひそめ、私は穴の中を覗《のぞ》き込んだ。  誰もいない。  ただの空っぽの穴だった。おそらく戦時中に防空壕《ぼうくうごう》か何かに使うために、掘られたものだろう。かなり古い穴だ。私は安堵《あんど》の溜息《ためいき》を漏らし、穴の縁に佇《たたず》んだ。幻覚だったのだ。私は誰も殺していない。  次の瞬間、私は穴の中へもんどりうって倒れ込んだ。倒れた拍子に足首をひねり、激痛が走った。何が起きたのか、一瞬分からなかった。私は呻《うめ》き声《ごえ》を上げ、足首を握りしめた。背後から誰かに突き飛ばされたのだ。痛みがおさまってくるにつれ、ようやくそのことに気づく。 「戻ってくるとは思わなかったわ」  頭の上で声がした。見上げると夜空を背景にした人影が、穴の中を覗き込んでいた。澄枝だ。やはり一緒に来ていたのだ。 「まだ効いてるの? 私の声、ちゃんと聞こえる?」  澄枝は楽しげにそう言った。表情は黒く塗り潰《つぶ》されて見えないが、おそらくにやにや笑っているのだろう。私は頬《ほお》が硬直して、喋《しやべ》ることができない。 「ずいぶん探したのよ。助かったわ。自分から戻ってきてくれるなんて。今すぐ楽にしてあげるから……」  澄枝は握りしめていたスコップを振り上げた。その瞬間、私はすべてを思い出した。殺そうとしたのは私ではない。澄枝の方だ。あのボヤ騒ぎの後、澄枝は私の部屋を訪ねてきて、一緒に一週間旅行をしてくれれば全部忘れてあげると提案してきたのだ。バリ行きの手配はすべて彼女がした。私は脅《おび》えながら彼女についてきたのだ。一日めも二日めも、彼女は単独で行動した。そして三日めの夜、私たちはルームサービスでマッシュルームの入ったオムレツを食べた。彼女が注文したものだった。私は気分がおかしくなり、妙な夢をいくつも見た。森の中へ連れていかれ、穴へ放り込まれる夢だ。私は抵抗した。頭を殴られたが、必死で彼女を突き飛ばし、逆に穴の中へ落としてやった。それを見届けてから、私は逃げ出したのだ。  澄枝は私の頭めがけてスコップを振り下ろした。耳のすぐそばで、風が唸《うな》る音がする。同時に、強烈な一撃が私の左目に加わった。頭の中が真っ赤になる。  私のものよ。私のものよ。私のものよ。誰にも渡さない。渡さない。渡さない。  歌うような彼女の呟《つぶや》きが、空の高みから聞こえてくる。続いてもう一度、スコップを振り上げる気配があった。風が唸る。私の脳天で火花が弾ける。  いやな音 「その音、めちゃめちゃ嫌やなあ」  脇《わき》を並んで歩いていた友人のKが、不意にそんな事を言った。私は一体何の事を言っているのかと不審げな顔でKを見返したのだが、彼の表情には少しも冗談臭さがなかった。 「え?」 「そのダウン・パーカーの音や」  Kはいらいらした声でそう言った。私はまだ何の事なのか良く解らないまま、 「そうか?」と軽く答えた。  暫くは二人とも黙ったまま歩き続けた。映画へ行く途中だった。大学の近くの喫茶店で待ち合わせをし、店を出て歩き出したとたんにKがそんな妙な事を言ったのだ。私はKの言葉を心の中で訝《いぶか》り続けたまま、歩いた。時折横目でKの顔を覗《のぞ》き見ると、何だか不愉快そうに口元を歪《ゆが》めている。一体何が気に食わなかったのだろう。私は自分までもがいらいらし始めるのを感じた。  十二月の、かなり寒い日だった。私は濃いカーキ色のダウン・パーカーを着ていた。Kはこのダウン・パーカーの音を嫌だと言ったのだ。確かに耳を澄ますと小さな音を立てている。身体を——特に腕を動かす拍子に生地と生地がこすれ合わさって立てる音だ。障子紙を擦《こす》り合わすような音、とでも言おうか。いや、もっとビニールっぽい音だろうか。いずれにしろ大して変わった音ではない。一体この音のどこが嫌なのだろうか。それとも単なる冗談なのだろうか。  私は改めてKの顔を横目で見た。Kは不愉快そうな顔のまま、私と目を合わすともう一度言った。 「ほんまに嫌な音やで、それ。何とかならんかな」 「どうして? どこが嫌なんだ?」  私は足を止め、少し怒って言い返した。からかっているにしてはしつこ過ぎる。 「だからその音や。ものすご耳障りなんや。こう……黒板や曇り硝子《ガラス》なんか爪《つめ》立てると嫌な音するやろ、あれと同じ音とは言わんけど、似たような感じや」  言われてみて私は、もう一度耳を澄ました。曇り硝子に爪を立てる音? そんな響きは一つもない。聞き流して当然の、いや、「聞く」という言葉すら当たらないほどの微少な音だ。 「そうかなあ、お前が言うほど嫌な音には聞こえないけど……」  私は皮肉めいた人の悪い微笑を浮かべたのかも知れない。Kは私の顔を見ると黙って俯《うつむ》き、両掌《りようて》を耳に当てた。 「ほんまに嫌なんよ」  オーバーな、と私は思った。眠れない夜は時計の秒針の音がやけに大きく聞こえるものだ。些細《ささい》な事も気にし過ぎると何だか重要に思えてくる。 「お前、それいつ買《こ》うたんや?」  尚も耳に両掌を押し当てたまま、Kは尋ねた。もう映画館のすぐ近くまで来ていた。私は詳しく返答するのを煩しく思った。上映まで余り時間がなかったのだ。 「今年の春だよ」  私はただそれだけ答えた。  その濃いカーキ色のダウン・パーカーは、私より二つ年長のGという友人から譲り受けたものだった。  まだかなり肌寒かったから三月の上旬だったと思う。Gはふらりと私の部屋を訪れ、成田まで自分を見送ってくれと突然私に頼んだのだった。 「成田って? 何処《どこ》か行くのか」 「ああ……」  心無しかGの顔色はさえなかった。 「ヨーロッパへ行って来るよ」 「ええ?」  私は驚きながらも眉《まゆ》をひそめた。Gの口調が冗談のようであったせいもあるが、それよりもその不安げな様子に疑問を抱いたのだ。 「何時《いつ》?」 「明日の朝一番の便だ。今夜は泊めてくれよな……」 「そりゃいいけど……」  私は答えながら何だか妙な気分だった。その時のGには、旅立ちへの輝くような興奮も期待も感じられなかった。憔悴《しようすい》し切って何処かへ身を隠すような、そんな気配だけがあった。 「しかし何でまた急に……」  私は少し遠慮がちに尋ねた。「馬鹿、冗談だよ」というGの返答を半分期待してもいたのだ。しかしGは何だか困惑したような表情を浮かべ、暫く口籠《くちごも》ってから、 「いや、別に理由なんかないけど。前から遠くへ行きたいって、言ってただろ?」 「そうか……でも……」  私は改めてGの様子を窺《うかが》った。しかしどう見ても念願の海外旅行を明日に控えた男には見えない。俯いている顔を上げたGとふと目が合った。にごった目をしている。私はするりと視線を避《そ》らしてGの身辺を窺い、 「荷物は? それだけかよ」  Gは小さなスポーツバッグを一つ、持って来ているだけだった。それも詰め込んだ様子はなく、中は殆《ほと》んど空なのではないかと思われた。 「ああ、身軽な方がいいんだよ。金さえ持ってればさ」  Gは答えながら短く頬笑《わら》った。しかし力のない、嫌な笑いだった。私はますます不審に思い、同時に不安にもなって尋ねた。 「お前、何か変だぞ」 「そうか?」 「何かあったのか?」 「別に……」  Gの横顔に一瞬影がさした。私はGが何か隠している、と直感したが、結局問い詰める事もできなかった。  夜半過ぎだった。明朝一番の便で行くのなら、そろそろ眠った方がいい時間だった。私はしかし、「寝よう」という一言がなかなか言い出せなかった。「別に……」というGの言葉を最後に、随分長い沈黙が続いていた。石油ストーブの上の緑色のケトルが、湯の煮立つ乾いた音を立てていた。Gは何かを話したがっている。私はそう確信していた。  しかしGは一向に口を開こうとはしなかった。ただ思い詰めたような表情で俯き気味に膝《ひざ》を抱えているだけだった。不自然な沈黙が重く部屋を満たし続けた。私は色々な事を尋ねたくて仕方なかったのだが、その時のGは何か不気味なほど他人を寄せつけない雰囲気があった。 「寝よう……」  そうGがぽつんと言ったのは、一時間ほども沈黙が続いた後だった。  私は床に就いてからも、Gに色々尋ねたい気持で一杯だったのだが、間も無く聞こえ始めたGの寝息に誘われて、何時の間にか寝入ってしまった……。  そして次の朝私が目覚めるとGの姿は何処にもなかった。弾ね起きて時計を見るともう十時だった。Gの寝ていた枕元《まくらもと》に、細かい字で書かれたメモが一枚置かれていた。 『余り良く眠っているのでこのまま旅立つことにする。見送りのない旅立ちもまた一興だ。昨夜は俺《おれ》の様子がおかしいなどと言っていたが、別に大した事ではないのだ。  どうせ解ってしまう事だから今の内告白してしまうが、実はアパートを引き払ってしまった。家財道具も全部売っ払った。その金とバイトの金を旅行の費用にあてた訳だ。しかしそれでも十分ではなかった。だから、今度の旅は、完全な片道切符だ。親元にも知らせていない。引き止められそうだったからだ。何しろ何時帰国できるか解らないのだからなあ……。  無謀だと思う。その不安が昨夜俺をあんな顔にしたのだ。心配かけて済まなかった。まあ何とかなると思うから、そう気に病まんでくれ。  旅立ちに向けて何か気障《きざ》な台詞《せりふ》でも残そうと思ったのだが、どうもそうは行かなかったようだ。無骨な文章になってしまった。済まない。わびの印にダウン・パーカーを置いて行く。暖かいギリシアへ行く俺には必要のないものだ。せいぜい愛用してくれ。  それじゃあ、また。向うから手紙を書くから……。 G』  Gは行ってしまった。しかし私には納得できなかった。無謀な旅への不安だけが、Gをあれほど憔悴させたとはどうしても思えなかった。不安な旅なら不安なりに、もっと饒舌《じようぜつ》であるはずの男だった。  私はあれこれ考えあぐねたが、結局は何も解らなかった。ただ、不気味な不安だけが残った。  目を落としていたメモからふと顔を上げると、ハンガーに掛けた濃いカーキ色のダウン・パーカーが目についた。見たところまだ真新しいものだった。手に取ってみて私はその軽さにちょっと驚き、袖《そで》を通してみた。Gのつけていたコロンの香りが、軽く鼻を撲《う》った。  そしてその日から四日後に、アテネで記録的な大地震があった。Gからの手紙は何時まで待っても届かなかった。新聞によると日本人の死者は無し、という事だったが、Gは完全に消息を絶ってしまった。  そして夏になり、休みに入ってもGからの連絡はなかった。Gの郷里からは心配した母親が上京して来て、友人達の間を尋ね歩いているようだった。勿論《もちろん》外国へ行ったなどとは夢にも思っておらず、アパートを引き払って蒸発してしまったと考えていたらしい。しかし、どういうわけか私の処へは訪ねて来なかった。私は余程知らせてやろうかとも思ったが、Gのあの不安げな表情が私の決心を鈍らせた。そして私は結局誰にも、何も言わずにおいた。  既に映画は始まっていた。館内は暖房が利いていたので、私はダウン・パーカーを脱いだ。Kが顔をしかめる、私は笑いかけて口をつぐんだ。席についている近くの人達の殆んどが振り返っているのだ。場内が暗いのでその表情までは見えないが、明らかに驚いた様子だ。私は少なからず狼狽《ろうばい》し、ダウン・パーカーをできるだけそっと小脇《こわき》に抱えて、一番近くの席に腰を下ろした。 「なあ……」  暫くして、映画に熱中し始めたKに私は尋ねた。 「これ……そんなに嫌な音か?」  Kは不愉快そうに私を見、強く頷《うなず》いて見せた。私はますます不安になった。確かに、上映中も私が身じろぎして膝の上のダウン・パーカーがちょっとした音を立てると、隣や前にいる者達が眉をひそめてこちらを見るのだ。  一体これはどういう事なのだろう。私は映画どころではなくなって考えた。さっぱりわけが解らない。ためしにもう一度身じろぎして音を立ててみる。  やはり同じように、私の囲りの者全員がこちらをきっとした表情で振り返る。中には舌打ちをする者さえある。私は半ば怖ろしくなって俯き、音を立てぬように気を配った。  一本目の映画が終わり、ロビーへ出ると、Kは煙草に火を点《つ》けながら、 「どうや、やっぱりみんな嫌な音や思うとるみたいやろ?」  と、半ば得意そうに言った。私は首を傾げ不思議そうな顔をした。 「ほんま嫌な音やで。お前はそう思わんのか?」 「ああ……」  その点も私には不思議だった。 「なあ、それ、生地何や?」 「知らないよ。ナイロンか、テトロンだろう」 「ほんまか?」  Kはダウン・パーカーの生地に指先で触れた。不思議そうな顔をする。 「何だ?」 「何か変やな……気のせいかな?」 「何が?」 「いや、やっぱ気のせいや」  私は自分でも触れてみた。別に何の変哲もない、普通の化学繊維だ。触れた拍子にちょっとした音がすると、Kはさっと顔色を変えた。 「おぞまし……」  私はうんざりしてしまった。とても映画を観る気分ではない。 「なあ、俺、帰るよ……」  残念そうにKにそう言った。Kもさすがに気の毒に思ったのか、引き止めてはくれたものの、余り説得力のない口調だった。私はダウン・パーカーをなるべく音を立てないようにして着、映画館を出た。 「あ、おいK!」  そして出がけにKを呼び戻して尋ねた。 「お前、Gと三月頃会ったか?」 「G?」 「ああ、三月頃さ」 「……三月頃言うたら、あいつがおらんようなる前やな。いや、会わんかったと思うけどなあ……どうかしたんか?」 「いや、別に。ちょっと急に思い出したからさ」  私は早足にその場を離れた。このダウン・パーカーは何かいわくがあるのだろうか。Gは何故《なぜ》これを私に残していったのか。私は歩きながらあれこれ考えあぐねた。しかし、結局何も解らなかった。  屑籠《くずかご》一杯の剃刀《かみそり》 「自分でも分らんのだよ。 屑籠の中に手を入れて捜しものをしてたんだ。そしたら中にいっぱい剃刀の刃が入っていたというわけさ」  ——J・D・サリンジャー——  もう森へなんか行かない  その日、葉介は午前中一杯かけて蛙《かえる》を十匹近く捕えた。用意した空の菓子折は一杯になった。葉介は草むらに胡座《あぐら》を掻《か》き、ポケットから取出した五寸釘《ごすんくぎ》で空気穴を開けた。  深い森の中で、辺りは青っぽい薄暗さに包まれていた。暑い日だった。森の中の湿った土が乾いていく匂《にお》いを、葉介は嗅《か》いだ。空気穴を開け終えた菓子折の中で、釘の先に驚いた蛙がしきりに動き回っている。葉介は菓子折を持ち上げ、その重さに満足して立ち上がった。尻《しり》が、ひんやり湿っているのが快かった。  上水と呼ばれる川に沿って、森は長く長く続いていた。川といっても水は殆《ほと》んどなく、V字型に抉《えぐ》られた斜面の奥底の方に、ちょろちょろと流れている程度のものだ。  葉介は時折その深い斜面の下の方を覗《のぞ》き込みながら、川べりを少し急ぎ足に歩いた。葉叢《はむら》ごしに射す陽の光が、ちらちらと葉介の目を瞬《しばた》かせた。少し空腹を感じたが、今はどうしようもなかった。  葉介はその日の朝、都心のアパートから一人で電車を乗りついで、この森へ来たのだった。森の中には、父の住む家があった。古い大きな平屋で、父はそこに一人で住んでいた。  葉介は歩きながら、母に何も告げずに出て来た事を、少し後悔した。  父の家へ一人で行くのは、これが初めてではなかった。前に数度、やはり夏休みや日曜に訪れた事があった。しかしそのいずれも、父の顔は見ずに母のもとへ戻った。  葉介は、父が嫌いだった。特にその目が嫌だった。父は、蛇のように落ち着いた黒い瞳《ひとみ》をしていた。物腰も穏やかで、葉介に対しても優しかった。しかし、その態度の中に何かぎこちないものを葉介は感じ取っていた。  もう随分前の事になるが、久し振りに家へ来た父が嬉《うれ》しくて、思わず抱きつくと、荒々しく振りほどかれた記憶がある。葉介はその時の事を思い出すと、何ともいえずばつの悪い嫌悪感に囚われるのだった。  母も、怖らくそんな父が嫌で別居しているのだろうと葉介は考えていた。  森の中のその道を、向うから母娘連れが歩いて来る。昼食の買物の帰り途《みち》なのだろう、母親は重そうな買物|籠《かご》を下げている。 「それでねぇ……」  何か話し出そうとした矢先に葉介の姿を認めた女の娘《こ》は、ちょっと口を噤《つぐ》んだ。 「なあに?」  母親が先を促す。女の娘は自分と同年輩の見かけない男の子に興味を引かれて、話そうとした事を忘れてしまったらしい。葉介の顔をちらちら見遣りながら、「ええと……」と考えあぐねる。  その内に葉介は二人とすれ違った。何か歯がゆいような、嫌な感情が葉介の胸に残った。  ——葉介は母とも、決して仲が良いわけではなかった。  母は、怖らく葉介を愛していなかった。その思いは、かなり幼い頃から葉介の中にあった。打擲《ちようちやく》したり、露骨な嫌悪を表情に表わしたりするわけではない。しかし、時に母の態度は、闇《やみ》の中で背後に感じる人の気配のように、葉介をはっとさせるものがあった。  それが何なのかは、葉介には解らない。ただ葉介は瞬間的に困惑し、母と自分との間にある暗い穴のようなものを感じ取って不安になった。そしてその不安を解消するために、葉介は母に対してひどく素直な少年に育っていった。  だからこそその日、母に何も告げずに家を出て来た事が、葉介には気がかりだった。もし解ってしまったら、母に嫌われてしまう。葉介はそう考えていた。今、母に見放されてしまったら、自分は行く処がないのだ——葉介は幼な心にそう感じていた。  森の道は、長く続いていた。父の家まで、まだ少しあった。先程の母娘とすれ違ってからは、もう人影もない。菓子折の中で、蛙が時折ごそごそ動いた。葉介は何か独言を呟《つぶや》きながら、箱の上からぽんぽん叩《たた》いた。蛙は、父の家へ行くのに必要なものだった。  父は、Y生物化学研究所という所で、主に血清を作る仕事に就いていた。毒蛇や毒虫に囲まれて、一日の大半を過ごしていたわけだ。母はそんな父の仕事をひどく嫌悪していた。別居の理由は、本当はそこにあったのかも知れない。  そんな仕事の関係上、父は四六時中観察しなければならない毒蛇や毒虫を、自分の家へ持ち込んでいた——勿論《もちろん》、別居する以前からである。  毒百足《むかで》に脚を刺される夢を連日見たと言って、父と口論する母の姿を葉介は覚えている。父はそれでも、家へ研究材料を持ち込むのを止めなかった。  父の今の家には、主屋の他にかなり大きな土蔵のような別棟があった。その中は多少手を加えて改装されており、様々な毒蛇や毒虫、あるいは毒魚などを入れた硝子《ガラス》ケースが沢山並んでいた。葉介は今までに一人で父の家を訪れた場合にも、真直ぐにこの別棟へ向かった。そして父の顔は見ずに、蛇や蠍《さそり》の相手をしてそのまま家へ帰った。父と会うのは、母に連れられて訪れる場合に限られていた。  ——だからその日も、父の居ないような日時を選んで訪れたのだった。  葉介は足を止め、椎《しい》の木に囲まれた父の家を遠く眺めた。それは大きな、暗い印象を何時《いつ》も葉介に感じさせた。蝉《せみ》時雨《しぐれ》が、繁く葉介の耳を撲《う》った。しかしその鳴声が、かえって辺りの静かな雰囲気を醸していた。  葉介はまず硝子窓に人影を確め、それからゆっくりと家へ近付いた。門の所で耳を澄ます——物音はない。蝉時雨が、一層激しく葉介の耳に響いた。  主屋の脇《わき》にちょっとした庭がある。その庭を囲んでいる短い生垣の隙間《すきま》を、葉介は這《は》うようにして潜った。庭を走り抜け、主屋の縁側に忍び寄って硝子戸から中を確める。誰もいないようだ。葉介は胸を撫《な》で下ろし、別棟へと向かった。  別棟の扉には、番号式《ダイアル》の円筒型|鍵《かぎ》がかかっている。葉介は菓子折を下に置き、番号を合わせた。 〈4—5—4—3〉  大分前に、父が葉介をこの別棟へ招き入れた時に、そう呟きながら鍵の番号を合わせた。鍵は、簡単に開いた。葉介はそれをポケットに入れ、扉を開けた。  生臭い熱気が、扉に向かってさあっと動いて来る。葉介は後手で扉を閉め、闇の中に手探りで電灯のスイッチを探った。  裸電球が室内をいきなり照らし出した。沢山の硝子ケースが、その反射でオレンジに輝く。葉介はうきうきしながら、その中を端から確め始めた。  壁際に沿って並んでいる下の列には、主に毒魚が入れられていた。いずれの硝子ケースにも水が一杯に湛《たた》えられており、一ケースに一種類の魚が入れられていた。異種同志を同じケースに入れると、すぐに殺し合ってしまうのだと、父は言っていた。  毒魚はしかし、そのいずれもが大人しそうな外見を備えており、余り葉介の興味を引かなかった。中に一匹だけ、葉介の腕ほどの大きさで、どちらが頭なのか解らないような魚がいたが、ひどく鈍感で、硝子ごしに叩いてもぴくりとも動かなかった。葉介は暫くその魚のケースの前に屈み込んで眺めていたが、死んだように水の底に澱《よど》んでいる様子に、やがてうんざりしてしまった。  壁際の上の列には毒虫が入れられており、そのどれもが葉介にはもう馴《な》じみのものだった。  右端のケースのタランテュラは、前に来た時よりも数が増えていた。子を生んだのかも知れない。見ると、少し小さめの奴《やつ》が三匹ほどいる。  背伸びをして中を覗き込むと、自分の頭が裸電球の光を遮ってケースの中が暗くなってしまう。葉介は苛立《いらだ》ち、下から見上げるようにして覗き込んだ。かなり苦しい体勢だ。真下には毒魚のケースがあるから、手をつくわけにはいかない。汗が、額から頬《ほお》にかけて流れ落ちる。葉介はその感触を、何か虫に這われたように感じて一瞬ひやりとした。  タランテュラは人の気配に驚いたのか、せわしなく動き始めた。紙巻煙草ほどもある毛むくじゃらの脚をカサカサと前後させて、しきりにケースの中を行来している。葉介はその様子を見つめている内、蝶《ちよう》を捕えてこなかった事を後悔した。  葉介は身を起こし、室内を見回した。蛾《が》くらいはいないだろうか、と思ったのである。しかし部屋の中には何も羽ばたく気配はなく、もっと濡《ぬ》れた、しっとりしたものたちの動く気配だけがあった。その気配は、葉介がタランテュラのケースから顔を離すと同時に、急に感じられた。  実際、その部屋の中の生物たちは、一勢に動き始めたように思われた。葉介は少し不安になり、足元に目を落とすと辺りを確めた。湿っぽい板張りの床に、黒い染みが点々とついている。何処《どこ》か部屋の隅の方から、軽い唸《うな》り声《ごえ》のような音が聞こえる。怖らくエア・コンの音だろう。部屋の中は、外よりもまだ数倍暑かった。 〈ケースの中で動いてるだけだ……〉  葉介は心の中でそう呟き、自分を励ました。暫く立ち止まって静かにしていると、やがて生物たちの動きもおさまった。葉介は何となく安心し、静かに部屋の中を歩いた。  タランテュラの次のケースは空だった。前は蠍が入っていたケースだ。葉介は不思議に思い、下から見上げると、ケースの蓋《ふた》の内側に何か黒い長いものが張りついている。予想していなかっただけに、葉介はどきっとした。毒百足だった。交尾しているのかも知れない。二匹が一繋《ひとつな》がりになってじっとしている。  一瞬の驚きの後に、葉介は変に静かな気持になった。二匹の百足はただ黒々と、貝のような印象があった。葉介は立ち上がり、深い溜息《ためいき》を吐《つ》いた。何故《なぜ》か解らない。ただ葉介はそんな大人びた様子をしてみせる事が、その場に似つかわしく思えたのだ。  葉介はその気持のまま、自分の父親に似せた科学者の足取りでケースの間をゆっくり歩いた。と、何処かで呻《うめ》き声《ごえ》のような押し殺した、短い音が響いた。はっとして顔をあげ、葉介は辺りを見回した。  菓子折の中で蛙《かえる》が鳴いたのかも知れない。それとも実験用の兎《うさぎ》か二十日鼠《はつかねずみ》が鳴いたか……部屋の中の空気がざわざわ動いた。生物たちが今の声に反応したのだ。葉介は息をひそめ、じっと立ちつくした。  ……もう何の物音もしない。右手の、蠍のケースの隣で、檻《おり》に入った白兎がひくひくと口の回りを動かしている。葉介は急に、慰められたような和やかな気持になり、その檻に近付いた。檻の前面を覆っている金網の隙間から人差指を入れて、鼻の頭を撫でてやる。この部屋の中で、葉介が実際に触れる事のできる生物は、この兎と二十日鼠だけだった。  兎は暫く葉介の指先の匂《にお》いを嗅《か》いでいたが、その内興味を失ったらしく、奥の方へ引込んでしまった。 〈厭世家《えんせいか》なんだよ、その兎は……〉  父は以前そんな事を言った。 〈ノイローゼなんだ〉  葉介は「エンセイカ」という文字も、意味も解らなかったが、その音感から何か遠くて淋《さび》しいものを感じ取った。もっとも、毒虫や毒蛇に囲まれて毎日を送る兎の気持は、説明されるまでもない事だったが。  葉介は舌を鳴らして兎を呼んだが、兎は檻の暗い奥の方に踞《うずくま》ったまま、動こうとしなかった。葉介は故意《わざ》と大仰ににやにや笑って見せ、執拗《しつよう》に金網を叩いて兎を呼んだ。その時不意に、葉介の背後で何か太い大きなものがずるずると地を這う音がした。  葉介は肩越しに振り返り、その音の主と目を合わせると短く息で笑った。 〈やあ……〉  この部屋の中で、一番大きくて立派な硝子ケースの中に、その生物は塒《とぐろ》を巻いていた。葉介が勝手に『Q』と名付けているキング・コブラだ。その日午前中一杯かけて森で捕えた蛙は、全てこのQのためのものだった。  葉介がQのケースに近付くと、菓子折の中で突然蛙が暴れ出した。葉介は蓋の上から叩いて蛙を窘《たしな》めようとしたが、中の蛙は一層暴れるばかりだ。  葉介は菓子折を力一杯振ったり、逆さにしてみたりしたが、やがて持て余して、ふと床に置いてみた。すると不思議な事に蛙は静かになった。同時にQがしゅるしゅると塒を崩して動いた。  葉介はケースの前にしゃがみ込み、硬質硝子一枚隔てて、Qの鼻先に掌《てのひら》を広げて軽く振ってみせた。Qは濡れた黒い瞳《ひとみ》で掌の動きを用心深く窺《うかが》っている。丁度葉介の足ほどの大きさの頭だ。胴体は太いところで葉介のそれと殆《ほと》んど違わないほどある。  薄い褐色と黒の斑《まだら》になった背を見詰めている内に、葉介はふとその手触りを思い出した。一度だけ触れた事がある。しっとりした、油を塗った硝子棒のような手触り……それが鱗《うろこ》に逆らって、尾から頭に向けて撫で上げると怖ろしく気味の悪い、ガサガサした感触に変わるのだ。 〈どうだ?〉  その時父は、Qの頭を押さえつけたままの姿勢で葉介にそう尋ねた。怖る怖る触れていた葉介は、応えようとしてふと顔を上げた拍子に、嫌なものを見て口を噤《つぐ》んでしまった。それは、父の笑顔だった。如何《いか》にもおかしくて堪らないという、それでいて嘲《あざ》けるような笑顔で、父は葉介を見ていたのだ。 〈葉介、『Q』なんて呼んじゃいけないよ。この子はね、葉子って言うんだから〉  それは、母の名だった……。  葉介はそれら一連の父とのやりとりを反芻《はんすう》しながら、Qの背や腹を仔細《しさい》に観察していた。Qは殆んど動かなくなった。部屋の中は静まり返った。表の椎《しい》の木林から、蝉《せみ》時雨《しぐれ》が遠く響いてくる。  また、呻くような声がした。今度は間違いなく蛙の声だ。菓子折の中だから、変に籠《こも》って聞こえるようだ。葉介は悪戯《いたずら》っぽくQに頬笑《ほほえ》みかけ、菓子折の蓋に手をかけた。Qはぴくりとも動かない。葉介はQのそういう様子が好きだった。愛玩《あいがん》用の動物とは明らかに違う、凜《りん》としたものがQの中にはあった。  葉介は菓子折の蓋を用心深く少しだけ開けると、そこから指を差し入れて小さめの蛙を一匹つまみ出した。暫くの間、蛙は葉介の指の間で弱々しくもがいたが、大した抵抗ではなかった。やがて大人しくなった蛙に葉介は満足し、硝子《ガラス》ケースの上面に開いた小さな餌《えさ》入れ口から中へ落とし込んだ。蛙はひたりと音を立てて底へ落ちた。葉介の指先にはねっとりした粘液の感触が残っている。Qは落ちてきた餌に鋭く反応して、塒を崩し始めた。蛙は硝子ケースの隅に踞ったまま、Qに背を向けて動こうとしない。菓子折の中で、残った蛙たちがまたばたばたと騒ぎ始めた。葉介は蛙の粘液にねばつく指先をこすり合わせながら、しなやかなQの動きを見詰めた。  Qは音もなく蛙の背後に頭を近付けていき、一瞬�チッ�と舌打ちをするような音を立てたかと思うともう蛙を飲んでいた。葉介は思わず飛びのきたくなるほどの、その素早さに圧倒され、息を呑《の》んだ。そしてQがじりじりと後退していくのを見届けると、何とも言えず胸のすくような思いを味わった。  葉介は続けて今度は大きめの蛙を取出すと、同じようにケースの中へ放り込んだ。そしてQがナイフのような鋭さで飲み込む様子を飽きもせずじっと眺めた。  Qの平たい口の中には小指ほどの毒牙《どくが》が二本、隠されているはずだった。Qにたった一度触れた時、葉介はその毒牙がコップの上面に張ったゴムの膜に突き刺さる様子も見た。毒牙の先からは黄色い液が滴り出し、コップの底に見る見る溜《たま》っていった。五ccと、その時父は言ったろうか。その黄色い液は、風邪をひいた時に飲む、甘いとろとろしたシロップに良く似ていた……。 「い……あ……」  葉介はびくっとしてQのケースから顔を上げた。今のは、蛙の声ではなかった。どこからだろう——葉介は辺りを見回したが、この別棟には、他に誰もいるはずがなかった。すると主屋の方からだろうか。しかし父がこの時間に家にいるとは考えられない。ましてあんな呻き声を立てる理由がない……。  葉介は子供らしい想像をたくましくして、強盗が誰かを縛り上げている様子を思い描いた。——耳を澄ます。  しかしそれきり、呻き声は跡絶えた。葉介は身を固くして待ったが、何も起こらなかった。菓子折の中が、またごそごそいう。葉介は屈み込んで蓋を開け、残りの蛙を次々と一匹残らずQのケースへ落とした。  蛙の落ちるひたひたいう音が、暫く室内を満たした。Qは満足そうに桃色の舌を出し、値ぶみするように五、六匹の蛙たちを一通り見渡した。そして首を回《めぐ》らすと、一番近い奴《やつ》から飲み始めた。蛙はだらしなく両手両脚を広げ切ってQに咥《くわ》えられると、見る間にその口の奥へ消えていった。 「ああ……」  今度の声はかなり大きかった。呻き、というより叫びのような声だ。はっきりと主屋の方から聞こえた。葉介は慌てて身を起こし、辺りに隠れる所はないか見回した。そして戸口に走り寄ると、まず室内の電灯を消した。左手の小さな窓から入り込む外光が、硝子ケースの群を薄青く照らし出す。ケースの中の生物たちは、不意に暗くなったのに驚いたのか、ざわざわと動き始めた。  葉介は胸の高鳴りを押さえ切れず、くらくらしそうになった。父かも知れない。もしそうなら、勝手にここへ入り込んだ事をどれだけ咎《とが》めるだろう……葉介は驚きと不安で頭が熱くなった。  しかし、やがて辺りはまたもとの静寂に戻っていった。生物たちも身じろぎを止め、ただじっと、戸口の脇《わき》に身を固くして立ちつくしている葉介の方へ注意を払っているようだった。蝉の声と、エア・コンの唸《うな》り、そして時折、Qが蛙を飲む音が短く�チッ�と葉介の耳を撲《う》った。 「……や……る……かえる……」 「そ……まて……」  押し殺したような会話が、突然葉介の耳に入った。やはり主屋の方からだ。誰の声なのか、男か女かすら解らない。しかし間違いなく、主屋に誰かがいるのだ……葉介は近くの硝子ケースの陰に身をひそめ、左手の窓から表を窺った。主屋の、丁度勝手口の辺りが見える。  やがて庭に面した縁側を慌て気味に走る足音がし、勝手口の扉が荒々しく開かれた。葉介は身をすくめ、小さくなって硝子ケースの陰に引込んだが、次の瞬間には好奇心に駆られた。  葉介は怖る怖る首を伸ばし、窓から外を見遣った。  人影が、遠く勝手口に見えた。慌てているのだが、靴がはけずに難渋している様子だ。中学生か、怖らく高校生だろう。葉介は、その男に全く見覚えがなかった。黒い学生ズボンをはいて、上半身はランニング・シャツ一枚だ。左手にくしゃくしゃに丸めた白い物を持っている。ワイシャツだろうか。  その男子学生の姿が窓に見えたのは一瞬だった。すぐに彼は走り出し、中庭にその足音が響いた。木戸を蹴《け》り開ける音がする。そして辺りはまた静かになった。  葉介は今の男が誰なのか、主屋で何があったのか、皆目見当がつかなかった。ただ、驚きと不安の他に、何か嫌な——上手く説明できないがただひたすらに嫌な感情が湧《わ》き起こるのを、葉介は感じた。それは予感のようなものだ。それもひどく忌《いま》わしい……。  葉介は窓ににじり寄って、その男子学生の後姿をもう一度確めようかとも思ったが、なかなか動き出せないのだった。葉介は知りたくなかった。勿論《もちろん》何を知るのかは解らない。ただ、思わず顔を背けたくなるような印象がその男子学生の後姿にはあった。 〈逃げよう……〉  葉介は呟《つぶや》きながら、中腰になって扉へ近付いた。と、その時、勝手口の扉が静かに内側から閉じられる音がした。葉介は息を呑んで足を止め、振り返って窓から勝手口を見た。  中途半端に開いていた勝手口の扉がぴったりと閉ざされ、今ノブがぐるりと回ったところだ。そして辺りはまた静寂に返る。薄暗い別棟の室内で、再びしっとりした、毒を持つ生物たちが動き始める。エア・コンの唸り、蝉時雨……Qが蛙を飲む音が�チッ�と、間を置いて二度響いた。  葉介はそして、勝手口の内側から、男の笑い声が静かに響いてくるのを聞いた。  その笑い声は、始めは自嘲《じちよう》的に、そして徐々にその笑い自体に熱中しているかのように激しく、何時《いつ》までも響き続けた。  ナイフ  長い夢の後に、葉介は目覚めた。二、三度軽く目瞬《まばた》きをし、大きく息を吸って自分が何処《どこ》にいるのか理解した。  クレゾールの匂《にお》い、のりの良く利いたシーツと布製の白い衝立《ついたて》。衝立の陰には南へ向いた窓が三分の一ほど見える。その窓から、校庭をランニングする陸上部員たちの姿が、遠く眺められた。  中学校の保健室だ。  葉介は妙に視力がはっきりしているのを訝《いぶか》り、二、三度目をぱちぱちさせた。熱のせいだろうか——奇妙なほど良く見える。明るくて堪らないのだ。特に、保健室のあちこちに見られる銀色が目に堪《こた》える。ステンレスや、ビーカーに立ててあるメスや、窓のアルミサッシや……。  葉介は目を細めて、暫く遠近を交互に眺めた。しかしすぐに額の辺りに疲れを感じ、目を閉じると眼球が重く痛んだ。熱は、まだかなりあるようだった。  辺りは静かだった。時折|窓硝子《まどガラス》ごしに、怖らくはバレー・ボールの掛け声が遠く聞こえてきたが、虫の羽音ほどでもない。葉介は目を閉じたまま、もう一度寝入りそうになった。遠退きそうな意識を、瞼《まぶた》の裏側に感じた。  しかし、帰らなければ、という気持が心の何処かにあったのだろう。一旦《いつたん》遠退いた意識は反転して、葉介を目覚めさせようともした。うたた寝というのは、軽い目眩《めまい》に似ている。葉介は暫く、身体全体が頭になったような感覚を味わい、それからゆっくり目を開けた。 〈何の夢だったろう……〉  確かに覚えているようでいて、いざ反芻《はんすう》しようとするとその夢は一気に弾けてしまった。葉介はぼんやりとその事を考え、やがて空しくなった。その夢が、たった今一瞬うたた寝した時に見たものなのか、先刻《さつき》熟睡している時に見たものなのか、それとも昨夜見たものなのか、判然としなくなっていた。  見回すと保健室内は人気がなく、しんとしていた。葉介は改めてその静けさに気付き、ちょっと不思議な感じがした。壁の方に首だけを回《めぐ》らして時計を見る——視力は相変わらずはっきりしていて、文字盤の白黒が突き刺さるように目に飛び込んでくる。四時半だ。二時間はたっぷり眠った計算になる。  後手をついて半身を起こしながら、葉介はどうせいないと解っている保健室医の姿を探した。三十を過ぎたばかりの、笑顔のちょっと魅力的な女医だ。器量は怖らく十人並だったのだが、少し濃いめの上手な化粧をしているために、葉介たち中学生の目にはかなり美しく見えた。それに彼女は、セミ・ロングの良く梳《す》いた髪や、しなやかそうなふくらはぎや、柔かい指先を持ち合わせていた。そのために——勿論《もちろん》私立の男子校であったせいもあろうが、生徒たちの中にはこの女医に面倒を見て貰《もら》いたくて、仮病を使う者も少なくなかった。  彼女については生徒間に様々な噂《うわさ》が流れていた。独身であるとか、未婚の母であるとか、若い国語教師と関係があるとか……しかしそのどれもが、いまひとつ彼女にしっくり来ないような感じがした。またそのために、生徒たちは競うようにして一層様々な憶測を口にした。そして何時《いつ》の頃からか、彼女は使っている口紅の名で「レブロン」と綽名《あだな》されるようになった。  葉介はベッドから起き上がり、熱い息を意識しながら、衝立の陰にあるレブロンの机まで歩いた。口の中が変にべたべたして、少し足元がふらつくようだった。回転|椅子《いす》に腰を下ろし、故意《わざ》とらしく大きな溜息《ためいき》を吐《つ》く。ありがちな事だが、葉介は、自分を「哀れな病人」に演出してみたかったのだ。しかし、他人の目がなかったために、その効果は全く半減した。葉介は何となく自分が馬鹿に思え、がっかりしてしまった。  伏せていた視線を少し上げると、机の上にある二つのティー・カップが目についた。一つは飲み干されており、カップの縁に口紅がついていた。もう一つは手つかずで、ソーサーの上に置かれた金のスプーンも濡《ぬ》れていないようだった。すぐ脇《わき》に色硝子の丸いシュガー・ケースが置かれており、蓋《ふた》が外れたままだ。  葉介は、もしかしたらそれは自分のためにレブロンが用意したのではなかろうかと考えて、胸を高鳴らせた。考えられない事ではなかった。彼女は保健室を訪れる生徒には、必要以上に好意的だったし、その上、偶然だが葉介の父を知っていた。 〈あなたのお父さんて、もしかしたらY生物化学研究所に勤めてなかった?〉  二時間ほど前——五時間目の終り頃に葉介が保健室へ来た時、上着を脱がせながらレブロンはそんな事を言った。 〈そうですけど、どうして?〉 〈ああ、やっぱりそうなの。あ、ちょっとシャツの前はだけてくれる? そうそう、ありがと〉  彼女は聴診器を葉介の胸に当て、暫く黙した。 〈私ね、前あそこに勤めてたの……ここの中学に息子さんが入学したとか、ちょっと耳にしてたもんだから。名字が同じでしょ? だからそうかなって思って……ちょっと心臓の音、悪いわね。風邪だと思うけど……あなた弁膜が悪いって言われた事ある?〉 〈いえ、別に……〉 〈だめね、鍛え方が足りないわよ〉  そう言いながら彼女は、いきなり葉介の乳をきゅっと抓《つね》った。葉介は完全に狼狽《ろうばい》してしまい、まるでいやいやをする幼児のように身体を捻《ひね》った。彼女はすぐに手を離すと含み笑いをしながら立ち上がり、薬剤棚から錠剤を選び出して葉介に渡した。 〈これを飲んで、少し寝なさい。六時間目は休んだ方がいいわ。先生には言ってあるの?——どこの組だったかしら? B? ああそう。私が言っておくわ〉  葉介は慌ててシャツのボタンを止めながら、恐縮してベッドに横になった。身体じゅうの気怠《けだる》さが、一気に襲ってきた。妙に、胸の辺りがほてった。 〈そう、あなたがねぇ……あの人の息子なのねぇ。何か変な感じだわ……〉  独言のように呟《つぶや》く彼女の声が、すうっと遠去《とおざ》かった……。  反芻しながら葉介は、何か居心地の悪い、照れ臭いような思いを味わった。乳の辺りにレブロンの指先の感触が甦《よみがえ》ってくる。それは、柔かく、しっとりとしていて、変に好色的だった。  考えている内に、葉介はますます恥かしくなってきた。熱のせいばかりでなく、頬《ほお》が赤くなりそうだった。このまま保健室を抜け出して、帰ってしまう方が良いんじゃないだろうか——レブロンと顔を合わせて思わずどぎまぎしてしまう自分の姿を、葉介は想像した。  立ち上がる前に、葉介はふと思いついて、手つかずのティー・カップに触れてみた。それはすっかり冷えており、熱をもった葉介の掌《てのひら》に快かった。もう一方のティー・カップについたレブロンの口紅の跡が、やけに鮮やかに見える。例のはっきりし過ぎている視力のせいだろうか。まるで辺りの物は全てモノクロで、その紅だけが着色されているかのような鮮え方だ。 〈もしこっちのカップに紅茶が残っていたら、僕はそれを飲むふりをしてこの口紅の跡に唇を当ててみただろうな……〉  そんな事を考えながら、葉介は意識的に苦笑した。そして、そういう自分を大人っぽく感じた。しかし一方、その口紅の跡に触れてみたいという欲求も実はかなり強くあったために、ごまかしてしまおうとする自分のふがいなさを、心の何処《どこ》かで舌打ちしもした。  その時、不意にサイレンが鳴った。パトカーか、怖らく救急車だろう。随分近かった。——近い、というよりも、この校舎のすぐ真下であるような気がした。保健室は四階にあったから、その真下、つまり池のあるレンガ敷きの中庭から、サイレンは響いてくるようだった。耳を澄ますと、サイレンは池の周囲をぐるり回って、裏門の方から表通りへ出て行くらしかった。  そして徐々にサイレンが遠退いていくと、中庭に騒めく人の気配が残った。壁ごしに、四階のこの部屋にまで聞こえてくるという事は、かなり声高に話し合っているのだろう。  また誰かが脚でも折ったのだろうか。葉介はぼんやり考えた。  随分前になるが、葉介と同じ組の生徒が、体育の時間にハードルを飛びそこねて、膝《ひざ》の骨を折った事があった。全く凄惨《せいさん》な折れ方で、葉介はその時、彼の膝から皮膚を破いて血だらけの骨が突き出ているのを目《ま》の当りにした。若い体育教師は狼狽しながらも、彼の身体を動かさぬよう葉介たちに言い残して、校舎へ走って行った。脚を折った少年は、苦しみはしなかった。血を見てすぐに気絶してしまったのだ。膝を抱え込むようにして身体を丸め、トラックに横たわった彼の姿は、死んだように見えた。回りを囲んだ生徒の誰もが、口をきかなかった。やがて、救急車がサイレンを鳴らして駆けつけた。葉介は、初めて間近に見る救急車に、興奮してしまったのを覚えている。  脚を折った少年の名は満彦と言って、仲間内では「ミッコ」と呼ばれていたが、半年ほどして学校へ戻った彼の歩き方を見て、誰もが綽名で呼ばなくなった……。  葉介はその時の事を思い出しながら、もう遠く遠くなってしまったサイレンに、もう一度耳を澄ました。——しかし、辺りはもうすっかり静かになっていた。葉介は人目にもしんどそうに立ち上がり、上着を探した。  もし誰かが怪我をしたのなら、レブロンが保健室にいないのも解る——そうだとしたら、救急車が出て行った今、彼女は戻って来るに違いない。早く帰ってしまった方がいいだろう……。  上着を探すために保健室を改めて見回すと、今まで寝ていたベッドのすぐ脇に、葉介のものらしい通学|鞄《かばん》が目についた。誰か同じ組の友人が、気を利かせて持って来てくれたのだろう。上着は、その鞄の横にある椅子の背に掛けてあった。  葉介はふわふわした足取りで近付いていくと、まず上着を取って袖《そで》に手を通した。少しも寒くはなかった。首元の辺りが汗ばんでいるのが解った。  その時、遠くチャイムが鳴った——五時の、最後のチャイムだ。首のホックと第一ボタンは外したまま、葉介は鞄を持って室を出ようとした。  と、妙に鞄が軽い。何も入ってないような感じだ。誰か悪戯《いたずら》したのかも知れない。中味だけそっくり教室へ置いて——しかし葉介は頬笑《ほほえ》む気にもなれず、煩わしい不愉快な気持で一杯になった。  しかし、鞄を開けようとして膝をついた時、葉介はそれが自分のものではないと気付いた。裏側に貼《は》ってあるはずのステッカーがない。違うな——そう思いながらも、葉介は一応開けて確めようとした。内側に、名前が書いてあるはずだった。  しかし葉介の目は、名前を確かめる前に、鞄の底にあるぎらりと光るものに引きつけられた。  ナイフだった。それもかなり大型の。その鈍い銀色の光は、葉介の目に堪《こた》えた。鞄の中には、そのナイフの他に何一つ入っていなかった。  目を瞬《しばた》かせながら、葉介は一瞬|呆気《あつけ》に取られた形になった。ナイフは鞘《さや》もなく、むき出しで、鞄の底にごろり転っていた。妙な感じだった。葉介は暫くためらった後、手を差し入れてそれを掴《つか》んだ。木や硝子《ガラス》やプラスチックではなく、確かな鉄の重みが、掌に沁《し》みた。言ってみればそれは、素晴らしい重みだった。  取り出して握ったまま、葉介は幾分うっとりしてそれを眺めた。銀色のカーヴを描いた刃は、尖端《せんたん》の部分でくいっと反り上がっている。刃幅は太いところで、丁度葉介の指二本分くらいだろうか。握りは、木か恐らくはそれに似せた硬質プラスチックで、鹿の飛び跳ねる姿が彫刻されている。まだ新しいのだろう、刃にも握りにも、傷らしい傷はついていない。握りの下の方に、明らかに素人の手でイニシャルが彫られている。「M・K」と、それは読めた。  葉介はナイフから目を離し、鞄の内側を確めた。「満彦」——下手な崩し字でただ名前だけ、そう書かれていた。  その時、廊下を少し小走りに歩いて来る足音が聞こえた。葉介ははっとして握っていたナイフを思わず上着の脇ポケットに入れた。何故《なぜ》そんな事をしたのか解らない。鞄に入れ、元の通りにしておく事は簡単なはずだった。しかし葉介は、瞬間的にそのナイフを自分のものと錯覚してしまったような感じがあった。こっそり鞄に入れて学校に持って来、人気のない保健室でくすくす笑いそうになりながらその光り具合を楽しんでいる——そんな所を見つかってしまいそうな錯覚を、葉介は覚えたのだ。  続けて葉介は素早く鞄の蓋を閉め、元の位置に戻した。そしてベッドに横座りになり、少し俯《うつむ》いて扉の方へ神経を集中した。  扉が開き、白衣が葉介の目の端を掠《かす》めた。 「起きたの?」  その声に合わせて葉介は顔を上げ、レブロンと目を合わせた。何処か疲れた、濁った目をしている。彼女は後手で扉を閉め、少し乱暴な調子で自分の椅子《いす》に座った。 「今起きたところです」  葉介はレブロンが扉から椅子まで歩く様子を上目使いに窺《うかが》いながら言った。彼女は椅子に座ると脚を組み、膝の上へ肱《ひじ》を乗せて頬杖《ほおづえ》をついた。  この短い沈黙の間に、葉介はナイフをポケットに入れてしまった事を思い出し、急に怖ろしくなった。俯く振りをして、ポケットを確めてみる。少し膨らんではいるが、外から見ただけでは何が入っているのか解りそうにない。ほんの少し葉介は安堵《あんど》し、続けて、間の悪い沈黙をごまかすために、急に饒舌《じようぜつ》になった。 「あの……救急車が来てたみたいだけど、何かあったんですか?」  喋《しやべ》りながら葉介は、一刻も早く保健室から抜け出したい気持で一杯だった。間を見てナイフを鞄の中に戻してしまおうという考えは、不思議に湧《わ》いてこなかった。ただ、逃げ出したい、という気持だけが強くあった。 「救急車の音で目が覚めちゃったのね。そうでしょう?」 「いえ、別にそんなわけじゃ……」 「凄《すご》い音だったものね……」  レブロンの声は弱々しかった。それでいて、少し突き放すような感じもあった。 「……君の組にK君ているでしょ? 彼がこの丁度真上……」  レブロンは視線を上げてちらっと天井を見詰めた。葉介は「K」という名をひやりとして受け止めた。ナイフの持主の——ミッコの名だった。 「屋上から落ちたの」  その言葉を聞くなり、葉介は無意識に心の何処かで安堵した。 「死んだわ」  いささかの逡巡《しゆんじゆん》もなく、レブロンは言った。葉介は一瞬、血の気が引くのを感じた。 「死んだんですか?」 「そうよ」  レブロンはやけに落ち着いた、自分には全く関係ないという風な口調で、そう答えた。ただ、顔色は怖ろしく悪かった。葉介はぽかんとして、その青白い顔を見詰めた。 「即死だったわ……」  呟くようにレブロンは言った。  葉介は格別にミッコと親しい間柄でもなかったので、彼の「死」に関して物凄いショックを受けはしなかった。ただ、良く解らなかった——死んだ、という感じが上手く掴めなかった。それは静かで、遠く、少し異常だった。 「どうして落ちたんです?」  聞きながら葉介の脳裏に浮かんできたものがある——ナイフだ。 「どうしてって……」  困惑の色を見せて、レブロンは言い澱《よど》んだ。 「まだ解らないわ。先刻《さつき》警察の人にも訊《き》かれたんだけど。あの子、脚が悪かったでしょう? だから、何かの拍子で柵《さく》を越えて……踏み外したのかしら……」 〈違うな〉  葉介は思った。レブロンは本当は知っている。もしかしたら、あのナイフの事まで知っているかも知れない。 「Kはここに来てたんですか?」 「そうよ。あなた起きてたの?」  レブロンは少し驚いた様子で訊き返してきた。 「いえ、鞄が……」  葉介は慌てて口を閉じた。思わず言ってしまったのだ。レブロンは立ち上がって近付いて来、葉介が一瞬目で指し示した鞄を手に取った。葉介は顔を真赤にして、混乱する頭で何とか上手い言い訳を考え出そうとした。 「これ、K君のなの?」  レブロンは鞄を持ち上げて少し不思議そうな顔をし、そう尋ねた。葉介は狼狽《ろうばい》を隠そうと必死になりながら、小さく頷《うなず》いて見せた。 「あら……?」  レブロンは椅子に戻って鞄を開けると、意外そうな顔をした。 「何も入ってないわ……」  レブロンはそして、葉介ににやりと笑って見せた。葉介はその笑いの意味が解らず、思わず中途半端な笑みを返した。同時に、頬の火照《ほて》りが引いていき、代って目の上が重く痛み始めた。まるで殴られた後のようだ。葉介は目を閉じ、瞼《まぶた》の上を指で揉《も》んだ。 「まだ頭痛がするの?」  レブロンは鞄の蓋《ふた》を閉め、金具をかちゃかちゃ言わせながら尋ねた。 「いや、何か目が疲れちゃって……」 「そう。熱があるみたいね、まだ」  葉介は目を開け、改めてレブロンを見詰めた。彼女はミッコの鞄を両手で抱くようにして持っている。その鞄に目を遣り、葉介はその中にごろり転がっていたナイフを、もう一度思い浮かべた。  登山用というよりも、それは狩猟用のナイフだった。丁度ターザンが腰に挿《さ》しているような。しかしミッコは、何故あんな物を持っていたのだろう……葉介はその顔色の悪い、少し奥目の、如何《いか》にも一人っ子らしい少年の姿を反芻《はんすう》した。そういえば今日は、朝から欠席していたような気がする……。  葉介は、今日ミッコが居たかどうか思い出そうとしたが、どうしてもはっきりしなかった。勿論《もちろん》熱のせいもあったろうが、彼はそれほど目立たない級友だったのだ。前は——ハードルで失敗する前は、そんな少年ではなかった。血色の良い、物怖《ものお》じしない少年だった。 「これは後で警察のひとに渡さなくちゃあね」  レブロンは少し伏目がちに言った。葉介の顔色を窺っている様子でもある。 「そうですね……」  葉介は「警察」という言葉に幾分狼狽しながらも、曖昧《あいまい》な表情を作って答えた。レブロンは鞄を机の上に置いて立ち上がり、丁度|衝立《ついたて》の陰になって葉介には見えない流しの方へ歩いて行った。手には、ティー・カップを二つ持っている。やがて、水の音が繁く聞こえ始める。  あの紅茶は、ミッコのためのものだったろうか——葉介はぼんやり考えながら、ポケットのナイフを右手で押さえた。 「K君もね、風邪だったの……」  衝立の陰から、レブロンの声が聞こえてくる。葉介は、帰るなら今だ、と思った。 「熱はなかったみたいだけど、気分が悪いって言ってね……薬をあげたら、すぐ帰ったのよ」  言い含めるような感じが、その口調にはあった。葉介は生返事をしながら、ゆっくり立ち上がった。少し、足元がふらふらする。 「どうして屋上なんかに……」 「あの、帰ります」  レブロンの声を遮って葉介が言うと、水の音が止んだ。葉介はナイフの入っている方のポケットを身体で庇《かば》うようにして隠しながら、衝立を見遣った。胸が高鳴ってくる。何か大切な順番を待っている時のようだ。  レブロンはタオルで手を拭《ぬぐ》いながら衝立の陰から現われ、葉介と目が合うと作り笑いをした。顔色は相変わらず青醒《あおざ》めたままだ。 「大丈夫?」  その言葉は、変に空しかった。単に労《いたわ》りというのではなく、もっと深い、何か確認のような意味がこめられているような気がした。葉介はレブロンが椅子に腰かけるのを見ながら、ただ「ええ」と答えた。 「明日は休んだ方がいいわ……」  レブロンは机の引き出しから煙草を取り出して咥《くわ》えた。冷たい横顔をしている。良く見ると、今にも笑い出しそうな感じでもある。葉介は扉の処で立ち止まったまま、彼女が火を点《つ》けて煙を細く吐き出す様子を、不思議なものでも見るように眺めた。葉介の乳をきゅっと抓《つね》った時の彼女の表情がふと浮かんだ。 〈そんなにきれいじゃないな……〉  そして葉介は急にそう思った。と同時に、ミッコがナイフを鞄に入れて放課後保健室を訪れ、そして死んだその理由《わけ》が解るような気がした。 「じゃ、どうも」  葉介は何かを振り切るように扉の方へ向き直ると、保健室を出た。もし今、ポケットからナイフを取り落としても、レブロンは何も言わないだろう——そんな気がした。  廊下に出ると、保健室のすぐ脇《わき》に、屋上へ通じる階段があった。葉介はちょっと登ってみたい気もしたが、身体の事を考えて諦《あきら》めた。まだ、ひどくふらふらした。  廊下は暗く、長く真直ぐに伸びていた。中庭に面した窓から見える表は、もうすっかり闇《やみ》に包まれていた。窓に寄って、ミッコが落ちた辺りを垣間見ようとしたが、丁度池を囲んで植えてある樹木に隠れて見えない。葉介は窓から離れ、段々急ぎ足になって廊下を歩いた。  ポケットの中で、歩く度にナイフが重く揺れた。葉介は理由《わけ》もなくにやにやしてみた。ナイフは、正当に自分のもののような気がした。  アルファルファはどうしてる?  電話が鳴った。  葉介はキッチンで珈琲《コーヒー》をたてている際中だった。アルコール・ランプの火を消そうかどうしようか迷いながら立ち上がり、結局ベルの音にせかされてそのままキッチンを出た。  部屋の方の電話が鳴っているらしい。葉介は大股《おおまた》に廊下を歩き、自分の部屋の扉を開けた。  電話というのは鳴り始めると何故《なぜ》こうも生き物めいてくるのだろう——その上、葉介の部屋の電話はベージュ色で、まだ新しくつやつやしていた。 「はい……もしもし」  ベージュ色の受話器は掌《てのひら》にひんやり冷たかった。 「あ、もしもし?」  それは、母の声だった。 「ああ……」  葉介はまるで当てが外れてしまったような気のない返事をし、続けて、 「どうしたの?」  と、尋ねた。そして、今自分は随分迷惑そうな言い方をしたなと思った。 「お父さんがね……」 「ああ?」  母は声を低め、言葉を切って暫く間を置いた。その間に葉介は椅子《いす》に腰を下ろし、机の上に片肱《かたひじ》をついた。 「……死んだわ」 「ああ」  葉介は軽く頷《うなず》くようにして答え、今の母の声色について考えた。興奮を無理に押さえつけているのが明らかな、重い声だった。暫くの間、母の顔を想像してみる——。 「……聞いてるの、葉介?」 「あ?」  葉介は思わず高い声を出してしまい、慌てて低く、「ああ、聞いてる」とつけ加えた。 「しっかりしてよ。あのね、今朝お父さんが死んだの」 「今朝って、何時頃?」 「六時半頃……いえ、十時頃だわ。いいえちょっと待って、九時……だったかも知れない」 「何で時間がはっきりしてないの? 母さん確めた?」 「いいえそうじゃないの。ごめんなさい。ごめんね、葉介、確めてないのよ」 「確めてないって、どういう事?」 「時間をよ、時間は今ちょっと解らないわ。今朝っていう事しか」 「ふうん」  葉介は母のせわしない口調に、少し心を動かされた。しかしそれもほんの束の間の事で、後は暫く続きそうな母の沈黙を持て余して、当てもなく部屋の中を見回したりした。  机上の細々した物、横積みにした本、青色のカーテン、ベッド……と、葉介は視線を回《めぐ》らした。そしてベッドの真上の、クリーム色の壁面に掛けてある絵に目を止めた。  それはピカソの、確か「アブサンを飲む男」という油絵の複製だ。「青の時代」の作品で、円テーブルの前に座った男が、憔悴《しようすい》し切った表情で俯《うつむ》いている横顔を描いたものだ。  葉介は受話器を耳に当てたまま、その絵を久し振りに注意深く眺め、改めて遠い、心許ない印象を受けた。その絵の男は、青年のようにも老人のようにも、また時によっては女にも見えた。 「葉介?」  母の声に、葉介はぼんやりと絵に向けて放射していた意識の綱を、一気にたぐり寄せられた。耳に押し当てている受話器の感触が、不意に戻ってくる。 「ああ、何?」 「大丈夫?」 「大丈夫って?」  葉介は続けて短く笑った。そして笑いながら、母は今、自分の笑い声をどんな顔で聞いているだろうと思った。 「葉介……」  母は咎《とが》めるように語尾を少しうわずらせて言った。 「……笑うなんて、何よ」 「何で? だっておかしいじゃない。僕が大丈夫か、なんて」 「そんな、あなたは……」 「解った解った。大丈夫だよ、僕は。しっかりしたもんさ。びくともしてないよ。それより母さんの方はどうなの。大丈夫?」  葉介は決して真面目な口調で尋ねたわけではなかった。母はそれを感じたのか、何も答えない。葉介は心の中で舌打ちし、同時に浮わついた言い方をしてしまった自分を少し後悔した。 「ねぇ、母さん……だってさ……全然ショックじゃないわけじゃないよ。でもさ、ほら、僕はもう小学校の時から父さんには会ってないんだよ。父親って言っても……それは父親じゃないよ、解るだろ?」 「そりゃそうよ。でもね……それでも笑う事ないじゃないの」 「ああ……そう、それは悪かった。ほんとに。うん、いや、父さんの事笑ったわけじゃないよ。母さんのさ……その、母さんの訊《き》き方がちょっとおかしかったから……」 「解ってるわ」  母は聞こえよがしとも思えるほど大きな溜息《ためいき》を吐《つ》いた。怖らくこの後にまた暫く沈黙が続くのだろう。葉介はその間にストーブを点《つ》けたいなと思った。足もとが少し寒い。葉介が座っている位置とは丁度対角線上の部屋の隅に、ストーブはあった。葉介は斜《はす》になってそのストーブを眺め遣り、がっかりして向き直った。左足を右腿《みぎもも》の上へ載せて、片手で指先を揉《も》んでみる。スリッパをはいてくるんだった……。 「そう、お父さんとは……」  母は全く不意に話し始めた。独言を言う調子にちょっと似ていた。 「……もう随分会ってなかったのね。私も、長い間会ってないわ。葉介、あなた恨んでるわね」  母のその言い方はひどく断定的だった。葉介は少なからずたじろぎ、不自然な間《ま》を置いてしまってから、 「ええ? 何故?」  と、困惑したように尋ね返した。実際葉介は、父も母も恨んだ覚えは一度もなかった。ただ、母の余りに断定的な言い方に、思わず自分が誰かを「恨んでいた」ような錯覚を抱いてたじろいだのだ。  しかし母はそれまでのどこか湿っぽい、淋《さび》しげな語調を急変させて、変に醒《さ》めた声でこう言った。 「いいのよ、恨んでても。別に構やしないわ」  葉介は一瞬当惑し、それから一気に白けた気持になった。母を相手にして、自分は何をむきになって赤くなったり青くなったりしてるんだろう、と思ったのだ。  そして葉介は何も言わずに受話器をそっと机の上に置くと、ストーブを点けに立ち上がった。  怒りでも驚きでもない、何かやるせない思いが胸に澱《よど》んだ。葉介はストーブに近付くと素早くスイッチを捻《ひね》り、点火レバーを押した。灯油の燃える重苦しい匂《にお》いを嗅《か》ぎながら、机へ戻る……。  受話器を再び耳へ押し当てると、上手い具合に母はずっと沈黙しているらしかった。いや、父か葉介について二、三何か喋《しやべ》ったのかも知れないが、いずれにしても葉介が聞いていなかった事には気付いてない。 「とにかく……」  ようやく母は口を開いた。 「……私が悪いんじゃないわ。誰か私以外の人が悪かったのよ……あのひとか、あなたか……」 「どうして?」  話の脈絡も解らぬままに、思わず葉介は尋ねてしまった。 「知らないわ」  母は一言《ひとこと》、そう言った。変に自虐的で無責任な言い方だった。  葉介は、軽く受け流してしまわなかった自分自身を腹立たしく思った。どちらでも良い事なのだ。恨もうが恨むまいが、誰が悪かろうが……。 「母さんが悪いんじゃないさ。そんな事は解ってるよ……」  できるだけ静かに、落ち着いて葉介は言った。母は何も答えなかったが、納得したように息で鼻を鳴らす音が遠く聞こえた。 「で、今どこにいるの?」  葉介は間を置かずに、こちらから話題を避らそうと努めた。勿論《もちろん》母の答えに希望を抱かないわけではなかったが、返ってきた答えは残念ながら予想通りのものだった。 「どこって、伯父《おじ》さんの所よ。私言わなかったかしら? 言ったように思ったんだけど……」 「いや、聞いてないよ」 「今朝ね、あの後買物してから伯父さんの方へ回ったのよ。そしたら丁度間が良くて——間が悪いって言うのかしら——向うでも私の事やっきになって探してたらしくて、お父さんの事で。家へも電話があったでしょう? 何回も電話したらしいわよ。あなたいたの?」 「ああ、いたよ」 「何で電話出なかったの? 大事な電話だったのに。馬鹿ね。本当に……ああ、でもあなた寝てたんだったわね。具合はどう? 熱は下がった?」 「ああ、もう大分いいよ」  葉介はまるで取りとめのない世間話を脇《わき》で聞いていなければならないような不愉快を感じた。しかし同時に、口調にはそのうんざりした気持を出さぬよう気を配った。 「午前中はね、ちょっと起きれなかった。でも午後から起きて、今ぼんやりしてたところ」 「ふん、じゃあ暖かくしておかないとね。今夜お通夜になるんだけど、いいわ、来なくても」 「そう……僕も余り気が進まないよ」 「そうなの、私だって嫌よ。あの家へ行かなきゃならないんだから。蛇だの百足《むかで》だの……そうそう、あのひとが何で死んだか、話したかしら?」 「ああ、聞いたよ」  葉介は面倒になってついそう言ってしまった。しかし母は話に熱中しているらしく、何時《いつ》もの勘の鋭さを鈍らせて何も聞き咎めずに続けた。 「嫌ね、本当に。何時かこうなるとは思ってたわ。あんな蛇、早く殺して貰《もら》わなくちゃね。あれだけじゃないわ、全部。全部何とかして貰いたいわよ」 「そうだね……」  半ば上の空で答えながら、葉介は昔『Q』と呼んで親しんでいたキング・コブラの手触りを思い浮かべようとした。しかしそれはもう、単にざわざわした感触としてしか葉介の掌《てのひら》 に甦《よみがえ》ってこない。  たった一度、あれに触れた時の、掌から背筋へ抜けるようなあのぞくぞくした異常な興奮は、一体何だったのだろう。葉介はもう随分長い間、そんな感動を覚えた事のない自分に改めて気付いた。そして続けて、深い森や、暗く異様に湿っぽい飼育室の内部などを、おぼろげに反芻《はんすう》した。 「私ね、葉介? 聞いてる? 私最近でもまだ嫌な夢を見るわ。ほら、あの気味悪いやつ。話したでしょ……」 「ああ、百足の?」 「違う違う。あのひとが両手からぽたぽた血を流してる夢よ」 「いや、知らないけど」 「嫌ね。話したじゃないの。お父さんが死んでから何遍も同じ夢を見るって……」 「でも、父さんが死んだのは、今朝なんだろう?」  葉介は電話のコードを左手で弄《もてあそ》びながら、意識して醒めた声で言った。そして言ってしまってから、ああまたこれで話がややこしくなるんだろうな、と遠く思った。 「そうそう、そうよ。私ちょっと混乱しちゃって。おかしいわね……とにかくずっと前からこうなるって私には解ってたのよ。だからそんな夢を見たんだわ。予知みたいなものね、きっと。解るでしょう? じゃないと説明がつかないもの」 「そう、不思議だね……」  葉介は電話であるにもかかわらず、苦り切った表情を隠そうとした。それは、考えてみると、長い間に身についた母に対する習慣であるようだった。母は、葉介のそんなちょっとした表情の変化から、驚くほど様々な事を邪推する性質《たち》の女《ひと》だった——昔も、そして今も。 「不思議ね、本当に。変な夢だわ……そうそう、それでね……」 「ちょっと待って」  葉介は母の声を遮った。不意に珈琲《コーヒー》の事を思い出したのだ。電話を切るのにも丁度具合の良い口実に思えた。 「あのさ、珈琲を火にかけっぱなしだったんだ。消さなきゃまずいから、また後で。ね?」  葉介は性急に電話を切ろうとしたが、受話器を耳から離すのと殆《ほと》んど同時に、母のヒステリックな声が響いた。 「待って! 切っちゃだめよ。まだ話があるんだから。このまま待ってるわ。消してらっしゃい、早くね」  葉介はうんざりして、何とも答える気力もなく受話器を机の上に置いた。そしてやや急ぎ足に部屋を出ると、キッチンへ向かった。  珈琲の強い香りが、キッチンへ続く廊下にまで漂っていた。キッチンへ入ると、その香りが一層強まり、小気味良く沸き立つ音が葉介の耳に響いた。 〈煮過ぎたな……〉  葉介は遣り場のない不快を感じながら、アルコール・ランプの青い火を消した。そして真黒に煮詰まった珈琲が細い硝子管《ガラスかん》を伝って落ちる様子を、暫くぼんやり見詰めていた。様々な事で頭が一杯になっているような、それでいて虚ろな——妙な気がした。  踵《きびす》を返し、再び部屋へ向かって廊下を歩きながら、葉介はこのまま靴をはいて表へ出てしまおうかと考えた。しかしそれは余りに子供っぽい、軽薄なやり方だった。母は執拗《しつよう》に電話をかけてよこすだろう。今夜も、明日もあさっても……。  温まり始めた部屋へ入り、葉介は結局机上に転がっている受話器——それは、採血か何かのために、上向けてだらんと力を抜いている人間の腕を連想させる——を取った。  と、驚いた事に電話は切れていた。  たとえそれが悪い事であっても、当然起こるべき事態がいきなり解消されると、安堵《あんど》より先に失望のようなものを覚えてしまうものだ。葉介は何となくがっかりし、受話器を置いた。そしてそれから、何だか小馬鹿にされたような、嫌な気分になった。  ベッドに横になり、壁の、先刻《さつき》の絵に目を走らせる。腹立たしい、嫌な気分は一向に収まらない。絵の色調を成している青が、光線の加減なのか、先刻見た時よりもずっと濃く重く、葉介の目に映った。  突然、電話が鳴り始めた。葉介はぴくりとして反射的にベッドから上半身を起こした。しかし受話器は取らずに、間を置いてはけたたましく鳴り続けるベルの音を、困惑して遣り過ごした。母に間違いない——葉介は早く外へ出てしまわなかった事を後悔した。  しかし外出したからといって、事態は一つも変わらないのだ。このベルの音はずっと真夜中まで続くだろう。結局は受話器を取らねばならない……。 「もしもし?」  葉介は椅子《いす》に座らずに、ベッドに横になったまま受話器を取った。 「ああ、葉介。ごめんね、十円玉がなくなっちゃって、換えてきたのよ」  伯父の家にいるのにか——という言葉を葉介は噛《か》みしめ、同時にそれに対する母の如何《いか》にももっともらしい言い訳ぶりを想像した。 「ええと……何の話だったかしら?」 「父さんのさ、ほら、夢がどうこう……」  葉介は受話器を枕《まくら》の上へ置き、両手を頭の下に組んで答えた。母の声は、耳から少し離れたせいか、まるで蜂《はち》の唸《うな》りのようにビリビリした感じで聞こえる。 「ああそうそう、その話はもういいの。つまらない事だわ。忘れてちょうだい。お葬式の方の話よ。私がしようとしてたのは」 「ああ、出席するよ」 「え? 何か声が遠いわね……何て言ったの?」  葉介は受話器を持って口に近付け、いらいらした口調で、 「出るって言ったんだよ」 「出るって、葬式に?」  母はそして、実におかしそうに笑った。 「いいのよ別に。嫌々出席する必要はないわ。あなたは熱があるんだし。私ももしかしたら、それを理由に行かなくて済むかも知れないんだから」  葉介は何も答えず、死んだ父の事が一気に反芻され始めるのを感じていた。しかしその記憶は怖ろしく曖昧《あいまい》で、まるで曇硝子ごしの人影のようだった。 「とにかくお葬式は嫌だったわ……ごちゃごちゃ人がいて。それでね、ええと、何だったかしら……そうそう、私のアルファルファ、どうしてるかしら?」 「ええ?」  母の唐突な問いかけに、葉介は物思いを中断させられた。 「アルファルファよ。沢山種を買ってきたじゃないの。ええと、お父さんのお葬式の後で……次の日だったかしら? スポンジの上に蒔いて育てるやつ、ほら、野菜よ」 「ああ……」  それはもう何時の事になるだろう。母が妙な野菜の種を買って来た事があった。まるで砂粒のような種で、それを水に浸したスポンジの上に蒔《ま》くと、一週間で十センチほどにも成長した。日光を全く必要とせず、覆いなどをして暗くすればするほど、成長が早いようだった。見た目はモヤシをもっと細くしたような感じで、放っておけば何時までも枯れずにいた。  それが、アルファルファだった。  最初、母は幼児用のビニール・バケツか何かに一握りずつ蒔いては、その加速度的な成長ぶりを楽しんでいる様子だったが、ある日そのビニール・バケツの数が一気に増えた。バケツばかりではない、コップや、皿や、空き缶など、水に浸したスポンジを敷ける容器なら何でも、手当り次第に種が蒔かれた。  それから四日ほど経つと、台所はまるで苔《こけ》に覆われたようになった。目につく所全てにアルファルファの緑があった。  母は、上機嫌だった。そして毎朝そのアルファルファを赤い糸切り鋏《ばさみ》で摘んでは、嫌というほどロール・パンに挿んで葉介に食べさせた。それは、ちょっと臭みがあって、驚くほど水っぽく、何の味もしなかった。 「ああ、じゃなくて。どう? 成長してる?」  その種は、ビニール袋に入ったまま、キッチンのどこかにあるはずだった。葉介は何時だったか、何か他の物を探している時に、まだ一抱えも残っているそのビニール袋を見かけた記憶があった。 「成長してるよ、勿論《もちろん》。三時間に五ミリずつ伸びてる」 「そう、良かったわ。どうしても確めておきたかったの。気になって仕方ないのよね。一日で凄《すご》く伸びるもんだから、目が離せやしない……」  母はまるで、年寄りが孫の事でも話すかのように、明るい口調でそう言った。葉介は母の言葉を、〈そう、良かったわ〉、〈目が離せやしない〉と、頭の中で繰り返し呟《つぶや》いてみた。そしてふと、母が哀れで仕方なくなった。 「アルファルファはね。ね? いい? 聞いてる?」 「母さん……」  母の言葉を遮る自分の声が、震えそうなのが葉介は解った。 「なに?」 「いや、何でもない……」 「何よ、変な子ね。聞いて。いい? アルファルファはね、本当はムラサキウマゴヤシっていうの。ええと、ちょっと待って……昨日先生に調べてきて貰ったのよ。あのね、マメ科の多年草なの。原産は……何これ? ああ、西南アジア、か。汚い字ねえ、読めやしない。それで、牧草として世界で栽培。牛や羊が食べるわけよ。高さ八十センチメートル? おかしいわね、これ。八センチの間違いじゃないかしら。変ね……八十センチもあったら困っちゃうわよね……」  葉介は受話器を机の上にそっと置き、ストーブを消して部屋を出た。廊下は、電灯を点《つ》けねばならないほど薄暗くなり始めていた。キッチンへ向かって歩きながら、何故《なぜ》だろう——ふと、あのピカソの絵の青年が葉介の脳裏を掠《かす》めた。葉介はその絵の事で頭の中を一杯にしてしまおうと努めた。  キッチンに入り、すぐ脇《わき》にある白い、脚の長い椅子に腰を下ろす。葉介はそして、もう三年も前に——中学の時に死んだ父の事を考え、続けて、窓に鉄格子の填《はま》った、異様に明るい母の病室を思い浮かべた。確かそこにも円テーブルがあった——脚は床に固定されていたが。  キッチンはもうすっかり薄暗く、テーブルの上の細々した物の影が、ぼんやりと葉介の目に映った。葉介は電灯を点けに立とうとし、しかし考え直して点けずにおいた。何故だか解らないが、この薄暗さが母のためだと思えたからだ。  そして用意してあった白い珈琲《コーヒー》カップに、注意して珈琲を注ぎながら、あのアルファルファの種は今夜棄ててしまおうと、葉介はぼんやり思った。アルファルファはゴミ容器の中で芽を出し、明日の朝清掃車に放り込まれる頃までにはかなり育つだろう。あれだけの種の量があれば、清掃車の内部はアルファルファでぎっしりになってしまうのではないだろうか——。  葉介はブラックのまま珈琲を一口飲んだ。それは冷め切っていて、苦く、少し気違いの味がした。  西洋風|林檎《りんご》ワイン煮  そのアパートの階段を上りがけに、葉介は何か妙な匂《にお》いを嗅《か》いで足を止めた。甘酸っぱい、果物の腐ったような匂いだ。  しかしその匂いも、階段を吹き上げる夜の風に、すぐ散ってしまった。  雨が、降っていた。  葉介は傘の先から雨滴をぽとぽと垂らしながら階段を上り切り、恋人の部屋の扉を叩《たた》いた。間を置かず返事がある。扉に近付いてくる足音が響き、 「葉介?」  囁《ささ》やくような声が、扉ごしに聞こえる。 「うん」  鍵《かぎ》の開く音がし、恋人は嬉《うれ》しそうに頬笑《ほほえ》んで葉介を迎えた。同時に彼女の背後から、先刻《さつき》の甘酸っぱい匂いがわっと流れて来、葉介の顔をしかめさせた。 「随分早かったじゃない」 「うん、雨だから、タクシーで来た。何だよ、この匂い?」 「そんな顔するほどひどい?」  葉介は靴を脱ぎ、恋人の後に追《つ》いて部屋の中へ入った。ダイニングを通って、その奥の六畳間のベッドに並んで腰を下ろす。何か煮ているらしい。葉介はダイニングを通る際にちらりと流しへ目を遣って、その事に気付いていた。匂いはどうやらその火にかけた鍋《なべ》から流れ出しているようだった。 「あたしもう慣れちゃったみたい」  葉介がまだ匂いを気にかけている様子を見かねて恋人は言った。 「深呼吸してごらんなさいよ、ほら……」 「いいよ、馬鹿だな……」  恋人はおかしそうに一《ひと》しきり笑った。葉介はその横顔を見るともなしに眺め遣りながら何となく不愉快になった。 〈えらく御機嫌じゃないか……〉 「何を煮てんの?」  葉介はそれでも穏やかに頬笑んで尋ねた。恋人は呟《つぶや》くように「いいもの」と前置きしてから、 「林檎よ」 「リンゴ?」 「そう。林檎をワインで煮てるの。珍しいでしょ?」 「電話で言ってた良いものってそれかい?」 「そうよ」  葉介は思わずうんざりした顔をしてしまうのを、押さえ切れなかった。 「思ったより時間がかかるのよ。葉介が来るのも早かったし。もう少し……」 「お前さ……林檎やバナナを煮るたんびに、俺《おれ》を雨の降る夜中に呼び出すのか?」 「そうね。だって珍しいじゃない」  恋人はまたおかしそうに笑った。やけに燥《はしや》いでいる。葉介が露骨に不愉快そうな表情を見せても、全く取り合わない様子だ。  不意に、鍋の吹きこぼれる音がした。 「大変……」  恋人は慌てて立ち上がり、葉介の脇《わき》を離れた。葉介は小さく舌打ちし、その後姿を見送った。 「……やだ、こげちゃったかな?」  流しに立つ恋人の姿は、六畳間とダイニングとを仕切る襖《ふすま》に隠れて見えない。ただ、その襖は半分開かれているので、葉介の位置からは、ダイニングの食器棚やきつい緑色をした冷蔵庫が見えるし、勿論《もちろん》声もよく聞こえる。 「あ、よかった。大丈夫みたい」  葉介はそれには答えずに、ベッドの上にそのまま横になった。背中の辺りがその拍子にガサガサいう。右手を滑り込ませて抜き取ると、今日の夕刊だ。読む気もなしにそれを広げると、大きな見出しの記事が葉介の興味を引いた。 『K市で女性のバラバラ死体』  見出しに引かれて読み進むと、K市内の名所であるY公園内で女性の首が発見され、続いて胴体、両脚が近くの川から発見されたというものだった。最初に首を発見したのは塗装工の男性で、公園内の柵《さく》を塗り変えるため、ペンキを溶く手頃な空カンを探しに林の中へ入ったところ、ごろりと転がっている首に出食わしたという事だった。初めは人形の首だと思って放っておいたが、一時間ほどしてやはり心配になり警察に通報したというところが、葉介には面白かった。 「ねぇ……」  ダイニングから恋人が呼びかける。 「ああ?」  葉介は新聞から目を離さずに応えた。 「新聞読んでるの?」 「ああ」 「怖い事件が載ってるでしょう」 「ああ、今読んでる」  葉介は煩《うるさ》そうに答えた。ダイニングからのあの甘酸っぱい何ともいえぬ匂いは、ますます濃くなるばかりで、いっこう葉介の鼻に馴《な》じまない。 「馬鹿だと思わない? 犯人。せっかくバラバラにしたのに、すぐ近くの目立つ所に捨てるなんて。何の意味もないじゃない?」  葉介は苛立《いらだ》ちを覚え、何とも答えずに記事を読み進んだ。 『……発見された首には、耳から鼻梁《びりよう》にかけて深い傷跡があり、直接の死因はこの傷からの出血多量と思われる……』 「……でもすぐ発見される事を見こして故意《わざ》とそうしたんなら、凄《すご》い知能犯ね」  恋人は、今度は自問自答するようにそんな事を呟いた。葉介は新聞から目を離し、ダイニングを斜《はす》に見遣った。きつい緑色の冷蔵庫が、すぐに目に入った。葉介はこの色が嫌いだった。何か人を落ち着かなくさせる色だと前々からそう思っていた。 「きっと痴話喧嘩《ちわげんか》ね。つまらない事が原因に決まってるんだから……可愛《かわい》さ余って何とやらってやつ……」  恋人はかなり早口にそんな事を言った。しかし暫く間を置くと、今度は変にゆっくりした口調で、 「でもどんな気持で切ったりするのかしら? 平気なのかしら……」  葉介はしかし、聞いていない振りを決めこみ、故意《わざ》と音を立てて新聞をめくった。 「ねぇ葉介さ……あたしの友達でRちゃんて娘《こ》いるの知ってるでしょ?」  葉介ははっとして新聞から顔をあげ、恋人の方を見遣った。そして彼女が葉介の反応を窺《うかが》っていないのを確めると密《ひそか》に安堵《あんど》し、落ち着いて、 「だれさ?」  と、如何《いか》にも弛緩《しかん》した声で問い返した。 「ほら、あたしの中学の時の同級生よ。三人で何時《いつ》だったか遊園地へ行った……」 「ああ……」 「あの娘ね、今ヤーサンみたいな男性《ひと》とつき合ってるみたいなの。それでね、聞いてるの?」 「ああ」 「それでね、そのカレが言ってたらしいんだけど、死体の始末でね、良い方法があるんだって。何だと思う?」 「さぁ……考えれば結構色々あるんじゃない? 切り刻んで鶏の餌《えさ》にするとか……」 「違うの、そんなんじゃないの。あのね、お風呂《ふろ》でぐつぐつ煮るんだって。しっかり蓋《ふた》をしてさ、何日も何日も。そうするとね、ほら、お肉でも煮込むと小さくなるでしょう? ああいう風に縮んでいってさ、最後には溶けてなくなっちゃうんだって」  葉介は無言でその話に聞き入っていた。嫌な予感が胸を過《よぎ》る。 「本当よ」 「骨もかい?」 「そう……だと思うわ」  その話は、葉介がそのRという娘《こ》に話して聞かせたものだった。葉介はそれを、まだかなり幼い頃父から聞き知った。残念ながら、骨は溶けて消えないという話だ。葉介は自分が、知らぬ間にヤクザまがいの男として語られている事を苦笑したかった。が、一つもおかしくはなかった。ただ、Rというその娘の馬鹿な軽口を気に病むだけだった。 「それで?」  葉介は、できれば恋人を傷つけたくなかった。 「その溶けたやつはどうするんだ?」 「流しちゃうんでしょ、ザーッと」  そして短い沈黙があった。横風が雨粒を窓硝子《まどガラス》に吹きつけて、パラパラいう音がひとしきり響いた。林檎は煮上がったのだろうか、鍋の鳴る音がもうしない。 「やだね、でも」  恋人がぽつりと言った。葉介は新聞を畳みかけた手を止めて訊《き》き返した。 「何が?」 「そんな死に方って」  葉介は努めて明るく笑い、もう一度ベッドに寝転がった。その拍子に、ふと枕元《まくらもと》に頁《ページ》を開いて置いてある本が目についた。手に取って見ると、『インドへの旅』という本だ。旅行案内書のようなものだが、かなり詳しい事が書かれている。  頁をぱらぱらめくっていると、恋人がダイニングから姿を現わした。 「できたのか?」 「ううん、まだ。少し冷やした方がおいしいの」 「へぇ……」  葉介はまた本に目を落とした。恋人はベッドに腰かけると、葉介の髪や首筋の辺りを撫《な》でた。水は使ってないはずだが、やけに冷たい掌《てのひら》だった。やがて恋人はその冷えた掌で煙草を抜き取ると火を点《つ》けた。 「何でまたこんな本読んでんだ?」 「別に……」  恋人は気のなさそうにそう呟いて、細く煙を吐いた。 「葉介が大学卒業したらインドへ留学するとか言ってたじゃない? だから先回りして行って、くやしがらせようかな……何て思って」  言いながら恋人は頬笑《ほほえ》みを深くしていった。葉介もくすくす笑いながら、 「それは止めてくれよ、頼む」  恋人はしかし、段々笑いを収めていった。そして少し真剣な顔で、 「葉介さ、本当に行っちゃうの?」  そう訊いた。 「留学試験に通ればの話さ」  葉介は話題を避《そ》らしたく思った。このまま話せば、お互いに不愉快な結果に終わる事は目に見えていた。 「難しいの?」  しかし恋人はその事を突っ込んで聞きたがった。もう何度も話した事なのだ。何故《なぜ》同じ嘘《うそ》を聞きたがるのだろう……。 「難しいよ、そりゃ」  嘘だった。毎年応募者は二十人前後、募集は五人だった。葉介はパスする自信があった。 「でもきっと受かるわ……絶対よ」 「そうかな……」 「どうするの、そんな所行って」 「どうって……どうもないさ。向うへ行ってから考えるよ」 「馬鹿みたい」  葉介は笑った。確かに馬鹿みたい、だ。嘘ではなく、葉介は何も考えていなかった。行き先は、別にインドでなくともよかった。もしかしたら、日本の何処《どこ》かでもよかったのかもしれない。 「インドってね、昔の中国じゃ何て呼んでたか知ってる?」  恋人は煙草をもみ消しながら、ふとそんな事を尋ねた。 「天竺《てんじく》だろ」 「違うの、もう一つ」  葉介は暫く考え込み、解らないと答えた。 「シンドク」 「え?」 「身毒よ。身に毒って書くの」  葉介は本から目を避らし、恋人の唇の動きに注意していた。そして思わず頬笑んでしまった。 〈身毒……〉  それは如何にも葉介にふさわしく思われた。同時に葉介は、黄色い液がコップの底に溜《たま》っていく様子を思い描いた。「毒」という言葉は何時も葉介に、幼い頃見たキング・コブラの毒液抽出の様子を思い出させた。それはまた、父の思い出とも重なって、何度も繰り返し夢に見る光景だった。 「毒蛇が多いからそう言うのかしら? それとも汚いから?」 「さぁね……中国人は当て字が得意だからな」 「でも病気が多いのは確かでしょう?」 「そう……それはそうだ」 「何でそんなとこ行くの?」  恋人はまた同じ事を言った。見ると、笑っているような、怒っているような顔をしている。自分で表情を持て余しているのだろう。葉介が取り合わずにいると、彼女は続けて言った。 「何が嫌なの? どうしてそんな風に逃げるみたいに……」 「何が?」  葉介は上手く表情が作れたと思った。 「何も嫌じゃないよ。逃げるっていうのはどういう事?」 「だって……」  また短い沈黙があった。今度のは、葉介が最も嫌っている型《タイプ》の沈黙だった。雨音がさぁーっと耳に戻ってくる。  テレビでも点けたいなと思って、その方へ目を走らせた時、葉介はふと、例の匂《にお》いが消えているのに気付いた。煮るのを止めたからか、それとも鼻が慣れてしまったのか……。 「帰って来ないんでしょ?」  恋人は葉介の顔色を窺《うかが》いながら、咎《とが》めるように尋ねた。葉介は胸の中が煩わしさで一杯になってしまいそうなのを感じた。 「何でお前はそう先走って話したがるんだ? まだ行けるかどうかも……」 「ううん、行ったら絶対帰って来ない」  葉介の言葉を遮って恋人は言い放った。 「馬鹿、留学はね、二年だぜ。嫌でも帰らなきゃなら……」 「絶対帰って来ない」  恋人は強く言い放った。きつい目をしている。嫌な目だ。葉介は不愉快になると同時に今夜の恋人の様子を少し訝《いぶか》しく思った。 「なぁ……何を怒ってんだ?」  俯《うつむ》いている恋人の前髪を右手でそっと持ち上げながら、葉介は語気を柔げて尋ねた。泣いているのかもしれない、そう思ったからだ。  しかし意に反して恋人は頬笑んでいた。葉介は少なからず驚いて、髪に触れていた手を離した。何だか薄気味が悪かった。妙な笑顔だ。作り笑い、というのではない。そういう意味ではごく自然な頬笑みだったろう。しかしそれがどういう意味を持つ笑顔なのか、葉介は判断しかねた。悪く言えば、それは痴呆《ちほう》の薄ら笑いに似ていた。 「何も……」  大分長い沈黙の後に、恋人は答えた。 「……ただ雨の夜が嫌なの」 〈——どういう意味だ?〉  葉介は頬笑み返しながら、恋人の言葉を反芻《はんすう》してみた。この無意味な、キザな台詞《せりふ》ほどこの場に似つかわしくないものもなかった。  二人ともが心に別々のものを持ちながら頬笑み合ったまま、長い沈黙が続いた。それは接吻《せつぷん》の前の、俗っぽいためらいの時間に似ていた。葉介はすぐにその事に気付き、型通り器用に唇を近付けていった。しかし心の中は妙な疑惑で一杯だった。  肩を抱き、軽く引き寄せて——恋人の唇はアルコールの匂いがかすかにした。怖らくワインだろう。葉介は恋人の身体が変になよなよして重いのに気付いた。酔ってるのか?  ふと目を開けると、そこには大きく見開かれた恋人の瞳《ひとみ》があった。葉介ははっと息を呑《の》んだ。と同時に、恋人は荒々しく葉介を突き放した。実に乱暴な遣り方で、それは憎しみからとしか考えられないほどだった。  恋人は自分でもはっとしたらしく、指を噛《か》むような仕種をした。そして慌てて、 「ごめん……」  一言そう言った。しかし表情はこわばったまま、何時《いつ》もの楽天的なそれに戻ろうとしない。葉介はただ驚いて恋人を見詰めた。ひどい間の悪さだ。 「ごめんね。今日あれなの。だからだめなの……」  恋人も間の悪さに堪えかねたのか、そんな事を言って立ち上がり、ダイニングの方へ行ってしまった。  六畳間に一人残された葉介は突き飛ばされた格好のまま、ダイニングを見遣った。冷蔵庫の緑色が真先に飛び込んでくる。全く理不尽な色だ。葉介は後手をついて半身を起こし、ダイニングの恋人に何か言おうとした。が、何も思いつけずに口を閉ざした。  やがて恋人の後姿が冷蔵庫の前に見えた。扉を開け、中から何か取り出している。赤い物と、ナイフだ……。  林檎《りんご》と一緒に、ナイフまで冷やしていたようだ。葉介は一瞬ひやりとし、それから笑いかけた。が、その笑いもすぐに凍えた。  甘酸っぱい、果物の腐ったようなあの匂いが再び鼻孔に甦《よみがえ》ってくる。 「まだ冷えてないわ……」  ダイニングで恋人が語りかけるともなしにそう言い、続けて、 「良い? 冷えてなくても」 「ああ、良いよ」  葉介は答え、食べたくないなと心のどこかで思った。食器を備える音が、妙に神経に響いてくる。今のは……? ワインのコルクを抜く音のようだ。 「お待ちどお……」  銀の盆に二人分の林檎ワイン煮を載せて、恋人は現われた。葉介はすぐにその表情を確めた——頬笑んでいる。自然な感じだ。何時もとどこも違わない。 「どうしたの?」 「え?」  疑い深そうな表情をしてしまったろうか? 葉介は心の中で舌打ちし、 「考えごと……」  と、笑って見せた。しかし、まだ何かひっかかるものがある。  机の上に置かれた二つの林檎は、たっぷりとワインを吸って毒々しく赤かった。冷やしてからもう一度ワインをかけたのだろう、浅めの皿は赤い液体で満たされている。林檎は煮たために皮だけが浮き上がり、所々あばたのように凹んでいた。 「はい、食べてみて」  恋人は勢いよくフォークの柄の方を差し出した。思わず身を引きそうになるのを押し留めて、葉介はそれを受け取り、恋人を見詰め返した。 「はい、ナイフ」  やはり柄の方をこちらに向けて、恋人は手渡した。しかしそのナイフは、皮膚が張りついてしまいそうなほど冷えているのだった。葉介は一瞬ぞっとし、それでも表情には出さずに受け取った。 「冷たいでしょ?」  恋人は少し首を傾け、頬笑んでそう言った。葉介はその時、ナイフを手に、何か急に総てが解ったような気がした。 「早く食べてみて……」  恋人が促す。葉介は変に神妙な気持で林檎に刃を入れた。恋人は楽しそうにその様子を見ている。 「あたしのも食べていいのよ」  そんな事を言う。  林檎は、気持の良いほどスカッと切れた。刃の当たるところから赤いワインが滲《にじ》み出てくる。二つになった林檎は皿の底に溜《たま》ったワインの中に倒れ、内から薄い湯気を発した。中はまだ温いのだろう。白っぽい黄であるはずの実の内側は、やはりワインを吸って丁度人肌のような色に変わっていた。  葉介は二つに切った林檎をまた二つに切り、それを神経質に五等分した。切る度に薄い湯気と、例の甘酸っぱい匂いが立ち登ってくる。小さく刻んだその一片をフォークで突き刺し、葉介はゆっくりと口に運んだ。  ワインの香りが口腔《こうこう》から鼻腔《びこう》にかけて、さあっと広がった。やはり冷えていない。気味の悪い、生温い感触が舌の先に触れた。噛みしめると、一層ワインの香りが強まった。しかし林檎の味はしない。ただアルコールの匂いと、古くなった洋梨《ようなし》のような鈍い歯触りだけが口腔に満ちた。 「おいしい?」  恋人の弾んだ声に葉介は頷《うなず》き、ゆっくり顔をあげた。  その夜以来、葉介は恋人に会わなかった。しかし、ずっと後になって、葉介が肌の浅黒い体臭の強い学友たちに囲まれて、ひどい孤独と疎外感に悩まされるようになってから、日本の事を思い出そうとして真先に浮かんでくるのは、その晩の林檎のワイン煮と、ガス自殺した恋人の事だった。  あとがき  本書におさめた六篇の短い小説を所謂《いわゆる》「ホラー」と呼んでしまっていいものかどうか。作者であるぼく自身も、実はあまり自信がない。何しろ最初からホラー的なるものを描こうと意識して取り組んだ作品は、一篇もないのだ。ならばどういうつもりで書いたのかと言うと、「恐怖」に至る一歩手前で感じられる「奇妙」という感覚を描いてみたかった。日常と非日常、あるいは現実と非現実との境界線上に、きわどく存在する奇妙な世界。それを物語ることはぼくにとって、習作の頃から現在に至るまで、常に好奇心を刺激する試みであり続けている。  そんなふうにして書いた六篇の作品の一々について、ここで言い訳めいた解説を加えるのは、控えておいた方がよろしかろう。ただ未発表の二作については、ほんの少しだけ、素姓なり明らかにしておこうかと思う。 「いやな音」  これは大学二年生、ちょうど二十歳の頃に書いた習作である。自分だけが聞くことのできない、嫌な音というものがあったら……という思いつきから、それに伴う疎外感を描いてみようとした。唐突な終わり方は、実験のつもりだったのだが……。 「屑籠《くずかご》一杯の剃刀《かみそり》」  二十四歳、集英社「すばる新人賞」に入選する前年に書いた短篇連作。最後の「西洋風林檎ワイン煮」は、一人称で書き直し、独立した短篇として「すばる」に発表した。  二作ともにほとんど手を加えずに、執筆した当時のままの形でここにご披露する。ぼくにとっては、この恥知らずな行為こそが「ホラー」である。                    原田宗典  出典一覧 ミズヒコのこと——『しょうがない人』(集英社文庫) 削 除 ——『どこにもない短編集』(徳間文庫) ポール・ニザンを残して——『優しくって少しばか』(集英社文庫) 空白を埋めよ——『どこにもない短編集』(徳間文庫) いやな音——書き下ろし(一九七九年執筆) 屑籠《くずかご》一杯の剃刀《かみそり》——書き下ろし(一九八三年執筆) 角川文庫『屑籠一杯の剃刀』平成11年8月10日初版発行